第30話 静かな子と強がる子は、結局どちらも欲張りだ
ゴールデンウィーク最終日の夕方は、始まる前よりずっと静かだ。
朝の時点ではまだ「あと一日ある」という顔をしていたくせに、日が傾き始めると急に「もう終わる」が部屋の中まで入ってくる。窓の外の光が少しやわらかくなるせいか、休日の最後は、朝よりも夕方の方が惜しい。
その日、俺は101号室のDKで、洗い終えたコップを拭いていた。
朱音はテーブルで学校のプリントを広げている。明日からまた平日だ。こいつはこういうところだけ妙に真面目で、休みの終わりには必ず“平日へ戻る準備”を始める。
「……何だ」
朱音が顔も上げずに言った。
「何が」
「さっきから、三回くらい同じコップを拭いている」
「うわ、見てたのか」
「見えている」
「いや、ちょっと考え事してて」
「顔」
「またか」
「まただ」
朱音はプリントをめくる。
「お前、連休の終わりになると、妙にぼんやりするな」
「そんなに?」
「そんなにだ」
「ひどいな」
「事実だ」
「便利ワード」
「最近それしか言わぬな」
俺は苦笑して、ようやくコップを食器棚へ戻した。
連休の終わり。
何をしていたかと聞かれたら、答えは案外地味だ。買い物をして、だらだら会をして、外へ出て、少し話して、また帰ってきた。それだけだ。
でも、その“それだけ”の中に、誰といたか、どんな顔をしたか、何を言われたか、そういうのが細かく残っている。
依子に予定を聞かれたこと。
朱音に外での距離を指摘されたこと。
夜の101で、二人とも少しずつ本音をこぼしたこと。
何かが決着したわけじゃない。
でも、何も変わっていないわけでもない。
「恒一」
朱音が今度はちゃんと顔を上げた。
「何」
「お前、今日、隣室と話したか」
「……してない」
「本当か」
「本当」
「……」
「何だよ」
「いや」
朱音は少し視線を逸らした。
「今日は静かだと思っただけだ」
「お前、それ、だいぶ気にしてるってことじゃん」
「違う」
「違わないだろ」
「違う」
「はいはい」
「その返事をやめろ」
そこへ、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
「……」
「……」
「言ったそばからだな」
俺が言うと、
「お前が呼んだのか」
と朱音。
「呼ぶかよ」
ドアを開けると、案の定、依子だった。
「こんばんは」
穏やかな声。
薄い色のカーディガンに、家着寄りの落ち着いた服。完全に“隣の部屋からちょっと来ました”の顔だ。手には小さいタッパーを持っている。
「何」
俺が聞くと、
「これ」
依子はタッパーを少し持ち上げた。
「昨日作ったの、少し余って」
「何これ」
「ポテトサラダ」
「急に生活力で殴ってくるな」
「殴ってないよ」
「でもタイミングが強いんだよな」
依子は小さく笑った。
「入る?」
と、俺が聞く。
「いいの?」
「いや、その」
「最近、それ聞くの自然になったね」
「やめろ」
「でも、少しうれしい」
「そういうのを毎回言うなって」
背後から、低い声が飛んできた。
「入るなら入るで、立ち話のままにするな」
朱音だった。
依子が少しだけ目を瞬く。
「鬼塚さん」
「何だ」
「今日は追い返さないんだ」
「追い返してよいなら、そうしている」
「してるじゃん」
俺が言うと、
「言葉の問題だ」
と朱音。
「意味は変わらぬ」
「変わるだろ」
結局、依子は101号室へ入ってきた。
タッパーはそのままテーブルへ置かれる。ポテトサラダの表面にはちゃんときゅうりとハムが見えて、妙に丁寧だ。
「……おいしそうだな」
俺が言うと、
「よかった」
依子は少し笑った。
「鬼塚さん、嫌いじゃないかなって思って」
「なぜ我の好みを基準にした」
と朱音。
「だって、101に持ってくるなら大事でしょ」
「……」
「何だ、その顔」
「別に」
「またそれ」
「うるさい」
俺は冷蔵庫から皿を出して、三人分に分ける。
こういう作業も、最近やけに自然だ。誰かが持ってきて、誰かが皿を出して、誰かが文句を言う。
少し前までなら、こんなふうに三人で休みの終わりの夕方を囲むなんて、想像もしていなかった。
「連休、終わるね」
依子が言った。
「終わるな」
俺が答える。
「……惜しい」
依子がぽつりと言う。
その言葉に、朱音が少しだけ反応した。
「お前もか」
「“も”ってことは、鬼塚さんも?」
「……」
「何だよ」
俺が言うと、
朱音は少しだけ嫌そうな顔で言った。
「少し、だ」
「へえ」
依子がやわらかく笑う。
「鬼塚さん、そういうの言うようになったんだ」
「お前は」
朱音がすぐに返す。
「いちいち反応するな」
「だって、ちょっと意外だったから」
「どういう意味だ」
「もっと、“終わるものは終わる”って顔してるのかと思ってた」
「……」
「でも、惜しいんだ」
「……」
「何だよ、その間」
俺が言うと、
朱音は少しだけ視線を落とした。
「休みの間は」
「うん」
「お前が家にいる時間が長い」
「……」
「だから、戻ると少し静かだ」
「……」
依子が、その言葉を静かに聞いていた。
それから、少しだけ首を傾げる。
「鬼塚さんって」
「何だ」
「ちゃんと、欲しいもの言うようになったよね」
「は?」
朱音の声が少し尖る。
「何だその言い方は」
「だって」
依子はポテトサラダを少しだけ箸で崩しながら言った。
「前はもっと、“別にどうでもいい”って顔してた」
「……」
「でも今は、“お前が家にいる時間が長い方がいい”ってちゃんと分かる」
「……」
「それって、欲しがってるってことでしょ」
「お前」
朱音が低く言った。
「そういうまとめ方をするな」
「違う?」
「違うとは言わぬが」
「ほら」
「だが、表現が気に食わぬ」
「そこはこだわるんだ」
「当然だ」
俺はその会話を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
依子はこういうとき、本当に強い。
静かな顔のまま、相手の本音をきれいに言葉にしてしまう。しかも、わざとらしくない。だから余計に逃げにくい。
「じゃあ」
と、依子が今度は俺を見る。
「恒一くんは?」
「何が」
「惜しい?」
「……」
「休みが終わるの」
「……まあ」
俺は少しだけ考えてから言った。
「惜しいかも」
「やっぱり」
「何だよ」
「そういう顔してたから」
「また顔か」
「うん」
依子は少し笑う。
「でも、たぶんそれだけじゃないよね」
「……」
「何がだよ」
「休みが終わるのが惜しいんじゃなくて」
「うん」
「今の感じが、少し好きになってる」
「……」
それを、そんなに静かに言うな。
俺が返事に困っていると、朱音が口を開いた。
「お前もだろう」
「え?」
今度は依子が少し驚いた顔をした。
「何が」
「隣室」
朱音は、少しだけ不本意そうにしながらも言葉を続ける。
「お前も、ただ“連休が終わる”のが惜しいのではない」
「……」
「“今の距離感が、そのまま少し続いてよい”と思っている顔だ」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
依子はほんの少しだけ目を伏せた。
「鬼塚さんに言われると思ってなかった」
「我も言いたくはない」
「でも言うんだ」
「見えてしまったからだ」
「……」
「鬼塚さん」
「何だ」
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない」
「それでも」
依子はやわらかく笑った。
「ちょっとうれしい」
朱音が、明らかに言葉を失う。
そこへ、俺がぽつりと言った。
「お前らさ」
「何」
と依子。
「何だ」
と朱音。
「結局、どっちも欲張りだよな」
「……」
「……」
しばらく沈黙が落ちた。
先に反応したのは依子だった。
「そうかも」
と、あっさり認める。
「前よりは」
「認めるのか」
俺が言うと、
「認めるよ」
依子はまっすぐ俺を見た。
「だって、前は“隣にいられればいい”って思ってたけど」
「……」
「今は、それだけじゃちょっと足りないし」
「……」
今度は朱音がそっぽを向きながら、低い声で言う。
「我も」
「うん?」
と、俺。
「家の中にお前がいるだけで十分だと思っていたわけではない」
「……」
「最近は」
「最近は?」
「それが“当然”みたいになると、今度は外の時間も気になる」
「……」
「だから、面倒だ」
「いや、お前」
俺は少し苦笑した。
「そこまで言って最後それなのか」
「最後まで言っていないからだ」
「どこまでだよ」
「知らぬ」
「便利だなあ」
けれど、その言い方で十分だった。
依子は、隣に住んでいるだけでは足りなくなっている。
朱音は、同じ部屋で暮らしているだけでは足りなくなっている。
形は違う。
でも、欲しがっているものの方向は、たぶんもうそんなに遠くない。
「で」
そのとき、背後から声がした。
「うわっ」
俺が振り返る。
開けっぱなしにしていた玄関の向こう、廊下に大友が立っていた。手にはコンビニ袋。絶対聞いてた顔をしている。
「お前、いつから」
「“どっちも欲張り”あたりから」
「最悪だな」
「いやでも」
大友はわりと真面目な顔で言う。
「そこ、今のまとめとして完璧じゃね?」
「本人の前で言うな」
「もう言ってるだろ」
「そういうことじゃない」
大友は肩をすくめて、でもすぐに少しだけ笑った。
「お前、もう“誰かに好かれてるかも”とかの段階じゃないぞ」
「……」
「何がだよ」
「完全に、取り合われてる側」
「お前」
「いや、マジで」
大友は廊下の手すりにもたれながら言った。
「鬼塚さんは生活ごと押さえにきてるし、白沢さんは外の時間までちゃんと見てる」
「……」
「で、お前はその両方に対して反応変わってる」
「……」
「もう十分、板挟みの主人公なんだよ」
「言い方」
「でも本当だろ?」
返せない。
返せない時点で、図星だ。
依子はその言い方に少しだけ笑っていて、朱音は明らかに不機嫌そうなのに、否定はしない。
その構図がもう、だいぶ答えに近い。
「お前」
俺は大友を睨む。
「何でそんなに嬉しそうなんだよ」
「そりゃ嬉しいだろ」
「何で」
「友達の人生が急にラブコメ濃度上がってきたんだから」
「最低だな」
「褒め言葉だよ」
「違う」
大友は「じゃ、俺は空気読んで消えるわ」と言いながら、まったく空気を読まずに103号室へ引っ込んでいった。
残ったのは、俺と朱音と依子。
少しだけ気まずい。
でも、完全に沈まない。
むしろ、大友のせいで変に核心だけが残った。
「……」
「……」
「……」
最初に口を開いたのは、依子だった。
「取り合う、か」
「何だよ」
俺が言うと、
「言い方はちょっと大げさだけど」
依子は少し考えるようにしてから続けた。
「でも、間違ってないのかも」
「お前まで認めるのか」
「だって」
依子はまっすぐ言う。
「私は、前よりちゃんと欲しいって思ってるし」
「……」
「鬼塚さんもそうなんでしょ?」
「……」
朱音は少しだけ黙って、それから観念したように言った。
「否定はしない」
「うわ」
と、俺。
「そこ素直だな」
「お前が一番うるさい」
「はいはい」
依子はその返答に、少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
「何だ」
朱音が警戒気味に返す。
「やっぱり、私は引かないでいよう」
「……」
「鬼塚さんが欲張るなら、私もそうする」
「……」
「宣言するな」
と、朱音。
「なぜ」
「真正面から来られると、やりづらい」
「でも」
依子は少しだけ笑った。
「鬼塚さんも、前よりまっすぐ言うようになったよね」
「お前ほどではない」
「でも言う」
「……」
「だから、たぶん今はその時期なんだと思う」
「何の」
「欲張る時期」
その言い方が妙に可笑しくて、でも少しだけ本質でもあって、俺は小さく息を吐いた。
静かな子と、強がる子。
やり方は全然違う。
でも、結局どちらも欲張りだ。
しかも、その欲張りさが前よりずっと隠れなくなってきている。
連休の終わりは、そういうものまで少しだけ前へ出してしまうのかもしれない。




