第29話 休みの終わりは、少しだけ今の距離を惜しくさせる
ゴールデンウィークの終わりが見えてくると、時間は急に足早になる。
始まる前は長いと思っていた。
学校がなくて、朝少し遅く起きてもよくて、予定があるようなないような、あの曖昧な空白が何日も続くのだと思っていた。
なのに、三日目を過ぎたあたりから、休みは妙に雑に減っていく。
気づけば、あと一日。
気づけば、明後日にはまた学校。
そういう空気が、朝の光の中に少しずつ混ざり始める。
その日も、101号室の朝はいつも通りだった。
手前の部屋で引き戸が開く音。
流し台の前で、やかんを置く音。
食器が軽く触れ合う音。
それが全部、もう“休日のいつもの音”として耳に入ってくる。
前の一人暮らしだったら、連休の終わりの朝なんてもっと静かだったはずだ。
自分が起きるまで何も動かず、起きたあとも、テレビをつけるでもなく、適当に水を飲んで、ぼんやりした頭のまま時間を溶かしていただろう。
でも今は違う。
「恒一」
と、いつもの声。
「起きているなら出てこい」
「起きてる」
「ならば早い」
「お前、その評価の仕方よく分かんないんだよな」
「今日は」
と、朱音。
「少しだけ片づけることがある」
「何を」
「休みの終わりの準備だ」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
布団から起き上がりながら、俺は少しだけ笑った。
「お前、そういうとこ真面目だなって」
「当然だ」
「休みの終わりに備える高校生、そんな多くないぞ」
「多いかどうかは知らぬ」
「でも偉いな」
「……」
「何だよ」
「最近、お前の“偉い”がだいぶ軽く聞こえる」
「軽くじゃないって」
「そうか?」
「そうだよ」
「なら、まあ」
朱音は少しだけ間を置いた。
「よい」
その“よい”が、少しだけ照れ隠し寄りなのも、だいぶ分かるようになってきた。
DKへ出る。
テーブルの上には、いつも通り二人分の茶碗と味噌汁の椀。今日は焼き鮭まであった。連休終盤のくせに朝からちょっとちゃんとしている。
「豪華だな」
俺が言うと、
「冷凍庫の整理だ」
と朱音。
「都合のよい言い換えだな」
「事実だ」
「便利ワード」
「最近、そればかりだな」
「お前たちが使いすぎなんだよ」
味噌汁を飲む。
鮭をほぐす。
連休中の朝食は、平日より少しだけ遅くて、少しだけ気が緩い。なのに、終わりが近いと思うと、ひとつひとつが少しだけ惜しく見える。
「明日で終わりか」
俺がぽつりと言うと、
「そうだ」
と朱音。
「早いな」
「そうか?」
「早いだろ」
「……」
朱音は少しだけ考える顔をした。
「たしかに、始まる前に想像していたよりは短い」
「だろ」
「だが」
「だが?」
「その分、妙に密度があった」
「……」
「何だ」
「いや」
俺は少しだけ箸を止めた。
「それ、分かるなって」
「そうか」
「うん」
「……そうか」
それだけのやり取りなのに、妙にしっくりきた。
連休中、何か大きな事件があったわけじゃない。
旅行したわけでもないし、劇的な告白が進展したわけでもない。
でも、だらだら会があって、買い物に行って、夜に少し本音が出て、予定を探られて、同じ部屋で朝を迎えて、気づけばその全部が連休の中身になっていた。
密度があった。
たしかに、そうだった。
朝食のあと、朱音は宣言通り、少しだけ部屋の中を整え始めた。
ノートをまとめて、学校のプリントを仕分けて、洗濯物を畳み直す。休みが終わる前に生活を“平日寄り”へ戻す作業らしい。
俺もなんとなく机の上を片づける。
やることが決まっているわけじゃないのに、終わりが近い休日には、こういう中途半端な整理が妙に似合う。
「恒一」
と、朱音が手前の部屋から呼ぶ。
「何」
「これ」
見れば、学校のプリントを一枚持っている。
「お前のではないか」
「え?」
受け取ると、二年の進路希望だか面談予定だか、そんな感じの紙だった。たぶん机の端に紛れ込んでいたんだろう。
「助かった」
俺が言うと、
「そうか」
「ありがとう」
「……」
「何だよ」
「最近、お前」
朱音は少しだけ言い淀んだ。
「礼を言うのが自然になったな」
「え」
「前から言っていたが」
「うん」
「今の方が、あまり構えずに言う」
「……そうか?」
「そうだ」
「いや、前から言ってた気もするけど」
「言っていた」
「じゃあ何が違うんだ」
「……」
朱音はプリントの残りを机へ置いてから、小さく言った。
「今は、ここに対して言っている感じがする」
「……」
「我に、とか、何か一つに、ではなく」
「うん」
「この生活全体へ」
その言い方が、少しだけ綺麗で、俺は返事に詰まった。
「お前」
俺がようやく言う。
「たまに、すごくちゃんとしたこと言うよな」
「たまに、とは何だ」
「そこは怒るんだ」
「当然だ」
「でも今の、分かるかも」
「そうか」
「うん」
俺は少し笑った。
「たしかに最近、生活そのものに礼を言ってる感じあるかも」
「……」
「何だよ」
「お前が、そういうのを自分で認めるのは珍しい」
「そうか?」
「そうだ」
「じゃあ、連休効果だな」
「雑なまとめ方だ」
「でもまあ、そういう時期だろ」
「……それも、そうかもしれぬ」
昼前、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
この時間ならもう驚かない。
むしろ、誰が来るかで少しだけ空気の種類が変わるようになった。
「出ろ」
と朱音。
「お前もだいぶ雑だな」
「この部屋の応対係はお前だ」
「いつ決まったんだよ」
「今決めた」
「便利だな」
ドアを開けると、依子だった。
「こんにちは」
やわらかい私服。今日は薄い色のワンピースの上にカーディガンを羽織っていて、学校のときより少しだけ空気が軽い。手には小さな紙袋がある。
「何」
俺が聞くと、
「この前のお礼」
と依子。
「何の?」
「この前、ゼリーとか夜のやつとか」
「ああ」
「あと」
依子は少しだけ笑う。
「連休が終わりそうだから、何となく」
「何となくで差し入れするな」
「だめ?」
「だめではないけど」
「じゃあ、いいでしょ」
「またそれだ」
紙袋の中には、小さい焼き菓子がいくつか入っていた。
量も多すぎず少なすぎず、いかにも“隣へ持っていく”にちょうどいい感じだ。
「入る?」
と俺が聞くと、
依子は一瞬だけ目を瞬いた。
「いいの?」
「いや、その……」
「先輩、最近それ自然ですよね」
いつの間にか背後にいたひなたが、にこっと笑った。
「うわ」
「お前どこから来た」
「洗濯物取り込んでたら見えたので」
「このアパート、みんな視界共有してるのか?」
「してないですけど、だいたい分かります」
さらにその後ろから、大友の声までした。
「お、また集まる流れ?」
「何でお前までいるんだよ」
「いや、ゴミ出し」
と、大友。
「で、たまたま」
「このアパートの“たまたま”の精度高すぎるだろ」
結局、また101号室に人が増える。
でも今日は前みたいな“だらだら会スタート!”という明るさとは少し違った。
休日の終わりが近い午後特有の、少しゆるくて、少しだけ名残惜しい空気がある。
ひなたが焼き菓子を開けて、小皿へ並べる。
大友は勝手に座椅子を確保する。
依子はテーブルの端へ腰を下ろして、部屋の空気を静かに見ている。
朱音は相変わらず不本意そうな顔をしながらも、お茶の用意だけは自然に始める。
「何か」
と、大友。
「連休終わる感じするな」
「急に言うなよ」
俺が返すと、
「いや、でも分かるだろ」
「分かるかも」
ひなたがうなずく。
「今日って、もう“休みの中日”じゃなくて“終わり側の休日”ですもんね」
「その言い方、妙に分かる」
と依子。
「明日も休みだけど、気持ちはもう少しだけ日常寄り」
お茶が配られる。
焼き菓子の袋が開く。
誰かがテレビもつけずに、でも何となく同じ部屋にいる。
そういう時間が、今日はやけに柔らかかった。
「GW、何したっけな」
と、大友が呟く。
「いや、まだ終わってないだろ」
「分かってるけど、もう振り返りモード入るじゃん」
「お前だけだよ」
「いやいや、あるだろ。連休終わる前の“結局何してたんだろう感”」
「……」
それは少しだけ分かる。
実際、この連休で俺は何をしたんだろう。
大した遠出はしていない。
派手なイベントもなかった。
でも、何もなかったとはとても言えない。
「買い物」
と、ひなたが言う。
「夜食会」
と、大友。
「洗濯」
と、朱音。
「予定確認」
と、依子。
「お前のだけ怖いんだよな」
俺が言うと、
「そう?」
依子は静かに首を傾げる。
「でも、だいぶ大事だったよ」
「何が」
「GWの予定とか、その人が誰とどう過ごすかって」
「……」
「だって、結局その休みの中身になるし」
「まあ」
俺は小さくうなずいた。
「それはそうかも」
依子はそこで、ほんの少しだけ視線を落とした。
「休みって」
依子が言う。
「何もしなくても終わるけど」
「うん」
「誰と何してたかは、ちゃんと残るよね」
「……」
「だから、ちょっと惜しい」
「何が」
「終わるの」
静かな言い方だった。
でも、その一言には、休日そのものだけじゃなくて、この数日の空気を惜しんでいる感じが混ざっていた。
朱音も、それを分かっている顔をしていた。
不機嫌そうではない。ただ、少しだけ考えている。
「お前は?」
不意に、朱音が俺を見た。
「何が」
「休みの終わりだ」
「……」
「惜しいか」
その聞き方が、妙にまっすぐだった。
俺は少しだけ黙った。
惜しい。
たぶん、そうだ。
学校が嫌だとか、平日が嫌だとか、そういう単純な話じゃない。
ただ、今のこの“休みだから少しだらだらして、でも誰かの気配はちゃんとある”時間が、少しだけ名残惜しい。
「……少し」
俺が言うと、
依子が小さく笑った。
「やっぱり」
「何だよ」
「そういう顔してたから」
「顔で判断するなって」
「でも、当たってるし」
「……まあ」
「鬼塚さんは?」
と、依子が聞く。
朱音は少しだけ視線を逸らした。
「……静かになるのは、少し違う」
「え?」
俺が思わず聞き返す。
「何が」
「休みが終わると」
朱音はカップを持ったまま言った。
「お前がまた、家の外の時間を増やす」
「……」
「学校という意味だけではない」
「うん」
「休みの間は、家にいる時間が長い」
「……」
「それが戻る」
「そっか」
「だから」
朱音は少しだけ言葉を探すようにしてから、
「……少し、惜しい」
と、言った。
それはたぶん、今まで聞いた中でもかなり素直な方の言葉だった。
「何その顔」
朱音がすぐに言う。
「いや」
俺は笑いそうになるのをこらえた。
「お前がそんなふうに言うの、珍しいなって」
「……言わせたのはお前たちだ」
「責任転嫁だな」
「事実だ」
「便利ワード」
大友が、急に静かになっていた空気を壊すみたいに伸びをした。
「いやー、青春だなあ」
「お前、今それ言うの野暮だぞ」
俺が言うと、
「分かってるけど言いたくなるだろ」
「ならない」
「なる」
「ならない」
「はいはい」
「そこを俺の口癖みたいに使うな」
ひなたが笑いながら焼き菓子を一つ取る。
「でも、分かりますよ」
「何が」
と俺。
「連休って、別に大事件なくても、終わる前に“あ、ちゃんと休みだったな”って思うことあります」
「……」
「その“ちゃんと休みだった”の中に、誰といたかってわりと大きいんですよね」
「お前、たまにほんといいこと言うよな」
大友が言うと、
「たまに、って何ですか」
ひなたが笑う。
「まあでも」
依子が静かに言う。
「そういう意味では、私はこの連休、ちゃんと覚えてると思う」
「何を」
俺が聞くと、
「誰といたか」
と、依子。
「……」
「そういうこと、普通に言うなよ」
「だって本当だし」
「お前、最近そのカードばっかだな」
「強いでしょ?」
「自分で言うのか」
「少しだけ」
夕方が近づくにつれて、部屋の光も少しやわらいでいく。
ひなたが帰る準備を始め、大友も「明日をちゃんと休むために今日は早く戻る」とか意味不明なことを言いながら立ち上がった。
「また明日……じゃないか」
ひなたが言う。
「でも、またすぐですね」
「そうだな」
と俺が返す。
「休み終わっても同じアパートだし」
「それはちょっと安心です」
「お前、それ今ここで言うと割と可愛いな」
大友が言うと、
「やめてください」
ひなたが笑いながら軽く蹴った。
依子も立ち上がる。
紙袋のゴミをまとめて、空になったカップを重ねる手つきまで、妙に静かできれいだ。
「じゃあ」
依子が言う。
「私は戻るね」
「うん」
「また後で」
「後で?」
俺が聞くと、
「隣だし」
「便利ワード」
「便利だから」
そのやり取りも、もう少し当たり前になってきている。
102号室のドアが閉まり、103と104も静かになる。
101号室に残るのは、俺と朱音だけだ。
静けさが戻ったのに、さっきまでの気配が少し残っている。
テーブルの上の小皿。
飲み終えたカップ。
少し崩れた座椅子の位置。
「……何だ」
朱音が言う。
「いや」
俺は小さく息を吐いた。
「なんか、休み終わる感じするなって」
「そうか」
「うん」
「……」
「何だよ」
「惜しいと言っただろう」
「言ったな」
「ならば、それだ」
「雑だな」
「雑ではない」
朱音は少しだけ真面目な顔で続ける。
「大きな何かがあったわけではない」
「うん」
「だが、何もなかったわけでもない」
「……」
「こういうのは」
朱音はテーブルの上に残ったクッキーの欠片を見ながら言う。
「終わる前になって初めて、少し惜しくなるものだ」
「……それ、だいぶ分かるな」
「そうか」
「うん」
「なら、よい」
その“よい”が、今日はいちばんしっくり来た。
休みの終わりは、少しだけ今の距離を惜しくさせる。
それはたぶん、休みが楽しかったからだけじゃない。
この数日の中で、誰とどういたかが、ちゃんと心に残っているからだ。




