第28話 夜の共有スペースは、本音が少しだけ出やすい
夜というのは、昼間にうまく片づけたつもりの感情を、わりと簡単に引っ張り出してくる。
その日もそうだった。
夕飯を食べて、食器を洗って、風呂の順番を決めて、表面上はいつも通りに夜が進んでいたのに、部屋の空気のどこかが少しだけ落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
昼間、依子に言われた言葉がまだ残っているからだ。
鬼塚さんみたいな“家の中の当然”にはなれないから、別のところで取りにいく。
あの静かな声と、静かな顔のまま、ちゃんと譲らない目。
「……面倒だな」
洗面所で歯を磨きながら小さく呟くと、扉の向こうから朱音の声がした。
「何がだ」
「うわ」
「うわ、とは何だ」
「気配消すなよ」
「消していない」
引き戸の向こうで、朱音が少し不機嫌そうに続ける。
「お前が勝手に意識を散らしているだけだ」
「その言い方だと、俺が全部悪いみたいだな」
「そうではない」
「じゃあ何だよ」
「……半分くらいは、お前が悪い」
「増えたな」
「増やした」
歯を磨き終えてDKへ出ると、朱音はテーブルに肘をついて、湯気の立つマグカップを両手で持っていた。
部屋着のまま、髪は少しだけ下ろしている。寝る前の顔だ。昼間よりもいくらか柔らかい。
「まだ起きてたんだな」
俺が言うと、
「お前もだ」
と朱音。
「先に寝る気配がなかった」
「見てたのか」
「見てはいない」
「じゃあ何」
「気配だ」
「便利ワード」
「そういうのがいちいち腹立つ」
俺は冷蔵庫から麦茶を出して、向かいに座った。
101号室の夜は、最近少しだけ密度が高い。
昼間のにぎやかさが引いたあとでも、完全に一人の空気には戻らない。手前の部屋には朱音の気配が残っているし、壁の向こうには依子がいる。どこかのタイミングで大友が帰ってくるかもしれないし、ひなたが風呂上がりに飲み物を買いに出る足音がすることもある。
静かではある。
でも、“誰もいない静けさ”とは違う。
「……昼間のことか」
朱音が先に言った。
「うん?」
「面倒だと言っていた件だ」
「……まあ」
「隣室か」
「言い方」
「違うのか」
「違わなくはない」
「どっちだ」
「便利な返しするなよ」
朱音は少しだけ目を細めた。
それから、カップの縁へ視線を落として、小さく言う。
「依子は」
「うん」
「思った以上に、静かに詰めてくる」
「……」
「昼の話を聞いた限り」
「そうだな」
「だが」
「だが?」
「それを、お前が本気で嫌がってはいないことも分かる」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は少し苦笑した。
「そこまで分かるのかって」
「分かる」
「何で」
「お前の反応だ」
「みんな顔見すぎだろ」
「お前が分かりやすすぎる」
その言い方が、少しだけ依子に似ていた。
気づいてしまって、何となく笑いそうになる。
「何だ」
朱音が聞く。
「いや、お前まで依子みたいなこと言うんだなって」
「……それは不快だ」
「そうか?」
「そうだ」
「でも本当だろ」
「違う」
「違わないって」
「違う」
「はいはい」
「その返しをやめろ」
「最近こればっかりだな」
少しだけ会話がゆるむ。
それでも、夜だからか、昼よりも言葉の奥にあるものが見えやすい気がした。
「お前は?」
俺が聞く。
「何だ」
「昼の話、どう思った」
「どう、とは」
「そのまま」
「……」
朱音はしばらく黙っていた。
すぐには答えない。
この“少し考えてから口を開く時間”が、最近の朱音には増えた気がする。前ならもっと反射で刺してきたはずだ。今は、自分の中で一度整理してから言葉を選ぶ。
「……嫌だった」
と、朱音が言った。
声は小さかったが、はっきりしていた。
「そうか」
「うむ」
「何で」
「何で、とは何だ」
「いや、どういう嫌か」
「……」
朱音は少しだけ眉を寄せた。
「全部だ」
「雑だな」
「雑ではない」
朱音はカップを机へ置いた。
「静かな顔で、当然みたいに“取りにいく”と言うところ」
「……」
「お前がそれを、完全には拒まぬところ」
「……」
「そして」
そこで少しだけ詰まる。
「我が、それを聞いて腹を立てているのに、どこかで納得もしているところ」
「……納得?」
「そうだ」
朱音はゆっくり言う。
「あれは、ただの意地悪ではない」
「うん」
「本気で、お前の中へ入りたいという言い方だった」
「……」
「だから嫌だった」
「嫌なのに、納得もした」
「そうだ」
「面倒だな」
「面倒だ」
朱音は少しだけ、ほんの少しだけ笑った。
「そこは一致している」
その笑い方が、やけに年相応で、俺は少し目を奪われた。
「何だ」
すぐに気づかれる。
「いや」
「何だ」
「今日、お前ちょっと素直すぎないか」
「夜だからだ」
「何その理屈」
「夜は、少しだけ油断する」
「初めて聞いた」
「我も今言語化した」
「便利だな」
「うるさい」
窓の外で、どこかのドアが閉まる音がした。
たぶん二階だろう。
そういう小さい音が、今夜はやけに耳につく。
「なあ」
朱音が言う。
「何」
「お前は」
「うん」
「依子と話しているときと、我と話しているときとで、違う顔をする」
「……」
「何だ」
「いや」
「何だ」
「そこ、そんなにはっきり見えてるんだなって」
「見えている」
「どんなふうに」
「依子と話しているときは」
朱音は少しだけ考えた。
「お前の中の、“どう返すのが正しいか分からない感じ”が前に出る」
「うわ、細かい」
「我と話しているときは」
「うん」
「正しさを考える前に、先に言葉が出ている」
「……」
「それが、よくも悪くも気に食わぬ」
「どっちなんだよ」
「どちらもだ」
「便利だな、その返し」
それはたぶん、当たっていた。
依子と話しているとき、俺はいつも少しだけ言葉を選ぶ。
選ばないと、どこまで本気で受け取るべきなのか分からなくなるからだ。
でも朱音に対しては、先に口が動く。昔からそうだったし、今さら取り繕う方が変な感じがする。
「で」
朱音が続けた。
「我はどちらがいいという話ではない」
「うん」
「だが」
「だが?」
「お前が“選んでいない”ように見えて、実はちゃんと相手ごとに違うのは分かる」
「……」
「そこが、少し面倒だ」
その“面倒”は、たぶん俺が感じているものとかなり近い。
誰かを比べたいわけじゃない。
でも、違う近さがもう二つある時点で、何も考えないのは無理になってきている。
「お前さ」
俺は麦茶のコップを指で回しながら言った。
「意外と、こういう話できるようになったよな」
「誰とだ」
「俺と」
「……」
「前ならもっと、“うるさい”“黙れ”“知らぬ”で終わってただろ」
「……今も半分くらいそうだ」
「まあ、それはそう」
「だが」
朱音は少しだけ肩の力を抜いた。
「今は、言わぬとお前が分からぬ」
「ひでえ」
「事実だ」
「便利ワード」
「そして」
「うん」
「依子が、言う」
「……」
「ならば、我も多少は言わねば遅れる」
「遅れる?」
「そうだ」
「何に」
そこで朱音は、ほんの少しだけ間を置いた。
「お前の中の位置に」
声は小さい。
でも、その一言は驚くほど真っ直ぐだった。
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は少しだけ呼吸を整えた。
「今日はお前の言葉の破壊力が高いなって」
「夜だからだ」
「万能だなそれ」
「今夜はそういう夜だ」
「怖いこと言うなよ」
「怖いのか」
「少し」
「……そうか」
「何だよ」
「いや」
朱音はカップを持ち上げて、一口飲んだ。
「我も、少し怖い」
「え」
「言う方も、だ」
「……」
「何だ」
「いや、お前でもそうなんだなって」
「何だと思っている」
「もっと平然としてるかと」
「家の中ではな」
「うん」
「だが」
「だが?」
「お前に対しては、最近少し平然でいられぬ」
「……」
「言わせるな」
「いや、でも」
「何だ」
「そういうの、ちゃんと言われると嬉しい」
「……」
「何その顔」
「それを」
朱音は顔を赤くしながら言う。
「毎回、素直に返すな」
「だって本音だし」
「そういうところだ」
「最近それ言いすぎだろ」
「何度でも言う」
「便利だな」
そのとき、玄関の外で小さく物音がした。
かす、と何かが触れる音。
次に、少し遠慮がちなノック。
こんこん。
俺と朱音が同時にそちらを見る。
「……」
「……」
「まさか」
俺が言うと、
「その、まさかだろうな」
と朱音。
玄関を開けると、依子が立っていた。
「ごめん」
小さな声。
「起きてた?」
「起きてるけど」
「どうした」
俺が聞くと、依子は少しだけ視線を下げた。
「飲み物、買いに行こうと思ったら」
「うん」
「小銭、部屋にないの気づいて」
「……」
「それで、両替お願いできるかなって」
「いや」
俺は思わず苦笑した。
「普通に言えばいいのに」
「夜だし」
「夜だと遠慮するんだ」
「するよ」
「昼間との差がすごいな」
「昼と夜は違うから」
「今日みんなその理屈使うな」
依子が101号室の中を少しだけ見る。
テーブルの上のマグカップが二つ。
向かい合って座っていた位置。
まだ少し残っている会話の温度。
それを見て、依子はほんの少しだけ黙った。
「……話してた?」
「うん」
と、俺。
「何の」
「お前のことも少し」
「……」
依子は一瞬だけ目を瞬いた。
「そうなんだ」
「そうだ」
と、朱音が後ろから言った。
「お前のこともだ」
「鬼塚さん」
依子の声が少しだけやわらかくなる。
「そんなにまっすぐ言わなくてもいいのに」
「今夜はそういう夜らしい」
と、俺が言うと、
依子は少しだけ笑った。
「何それ」
「お前が来る直前にそう言ってた」
「へえ」
依子はしばらく黙っていた。
それから、静かな声で言う。
「じゃあ、少しだけ仲間に入れてほしいかも」
「……」
「何その顔」
俺が聞くと、
「だって」
依子はほんの少しだけ困ったみたいに笑った。
「夜の101、たぶん今いちばん本音が出る場所でしょ」
「……」
「そこに私の話があるなら、私もいたいなって思った」
静かな声のまま、やっぱりこういうことを言う。
朱音が、後ろで少しだけ息を止めたのが分かった。
でも今日は、すぐには刺さなかった。
「……両替だけではないな」
朱音が言う。
「ばれた?」
依子が少しだけ笑う。
「ばれる」
「そうだよね」
俺は玄関のドア枠にもたれたまま、小さく息を吐いた。
「入る?」
「いいの?」
依子が聞く。
「今さらそこ聞く?」
「聞くよ」
「……」
俺は少しだけ後ろを振り返る。
朱音と目が合う。
数秒だけ、何も言わないやり取りがあった。
それから、朱音が不本意そうに言う。
「……飲み物を買う前に、少しだけなら」
「ありがとう」
依子は穏やかにそう言って、101号室へ入ってきた。
夜の共有スペースは、本音が少しだけ出やすい。
そして、その“少しだけ”が積み重なって、もう前みたいに何もなかった頃へは戻れなくしていく。




