第27話 静かな子ほど、譲らないときはちゃんと怖い
ゴールデンウィーク三日目の朝、俺は起きた瞬間から少しだけ嫌な予感がしていた。
理由は分からない。
でも、こういう予感はだいたい当たる。
101号室の朝はいつも通りだった。
手前の部屋で朱音が起きる音がして、洗面所の扉が閉まり、DKで湯を沸かす気配がする。俺も起きて、顔を洗って、テーブルにつく。味噌汁の匂い。窓の外は晴れ。春というより、もう少しだけ初夏に寄ってきた明るさ。
全部、平和だ。
だからこそ、平和なまま終わらない感じが妙にあった。
「何だ」
朱音が言う。
「さっきから、お前の顔があまりにも“何か起きそうだな”という顔をしている」
「そんな顔してる?」
「している」
「お前までそれ言うのか」
「最近、お前の表情は読みやすい」
「嫌だなその進化」
「進化ではない。学習だ」
「便利な言い換え」
「うるさい」
朱音は今日は比較的機嫌がよさそうだった。
昨日の買い物外出で、少しだけ外での空気にも慣れたのかもしれない。朝食の手つきも落ち着いているし、言葉の刺し方もわりといつも通りだ。
なのに、俺だけが少し落ち着かない。
「今日、何か予定ある?」
俺が聞くと、
「ある」
と朱音。
「洗濯」
「現実的だな」
「生活は現実だ」
「そうだな」
「お前は?」
「特にない」
「“特にない”は信用ならぬ」
「何で」
「最近、お前の“特にない”は、隣室経由で何か生える」
「言い方」
「事実だろう」
「……否定しづらいのが嫌だな」
食後、朱音がベランダ側で洗濯物をまとめ始めたので、俺は手伝いもせずにソファ代わりの座椅子へ沈んだ。
スマホを開く。
通知が二件。
一件目、大友。
『今日ヒマ?』
雑だな。
そう思いつつ返信しようとした瞬間、二件目が来た。
『今日の午後、少し話せる?』
依子だった。
やっぱり来た。
「……」
「何だ」
朱音がすぐに聞いてくる。
「顔」
「またか」
「まただ」
「便利だな」
「本当に便利だ」
「で?」
「何が」
「誰だ」
「なんで分かる」
「分かるからだ」
「怖」
「質問に答えろ」
「……依子」
「ほら」
「その“ほら”何なんだよ」
「予測の的中確認だ」
「お前も十分管理側なんだよなあ」
朱音は洗濯カゴの中からハンガーを取りながら、何でもないふうを装って聞いた。
「何だと」
「“今日の午後、少し話せる?”」
「……」
「何その顔」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「別にだ」
「そうか?」
「そうだ」
「はいはい」
その“はいはい”に、朱音が少しだけ眉を寄せる。
「その返事は腹が立つな」
「お前が分かりやすすぎるんだよ」
「分かりやすくはない」
「いやだいぶ」
「だいぶではない」
「はいはい」
「だからその返事をやめろ」
スマホを見つめる。
少し話せる?
たぶん大したことじゃない。
でも、依子の“少し”は、時々ちゃんと少しじゃない。
しかも最近は、自分の中の感情の整理もわりと口に出すようになってきている。そうなると、このメッセージの温度が少し読みにくい。
「返さぬのか」
朱音が言う。
「返すよ」
「なら早くしろ」
「なんで急かすんだよ」
「未処理の情報が目の前にあると落ち着かぬ」
「お前ほんとそういうとこあるよな」
結局、俺は短く返した。
『たぶん大丈夫。どうした?』
送ってから、少しだけ待つ。
すぐに返信が来た。
『会って話したいから、あとで』
……はい、重い。
「何だ」
朱音がまた聞く。
「“会って話したいから、あとで”」
「……」
「お」
思わず俺は顔を上げた。
「何だ」
「いや、お前、今だいぶ嫌そうな顔」
「していない」
「してるって」
「していない」
「はいはい」
「……」
朱音はそれ以上言わなかった。
けれど、洗濯カゴを持つ手だけは少しだけ強くなっていた。
午後、結局俺は102号室の前に立っていた。
我ながら、このアパートで“会って話したい”と言われてわざわざ外まで出るのも変だが、部屋で話すのも何か違う気がした。だから廊下で軽く立ち話くらいかと思っていたら、依子の方から「少し歩く?」と言われたのだ。
断りづらい。
というより、断ると余計に意味が生まれそうで断れなかった。
住宅街を、ゆっくり歩く。
休日の午後。
人通りは多くない。車の音も、平日より少し遠い。
依子は学校のときより少し軽い服装だった。薄いカーディガンに、柔らかい色のスカート。歩くたびに裾が少し揺れる。見慣れてきたはずなのに、学校とは違う空気の依子には、いまだに少しだけ戸惑う。
「で」
俺が先に聞いた。
「何の話」
「うん」
依子は少しだけ前を向いたまま歩く。
「確認」
「またそのワードか」
「だめ?」
「だめじゃないけど、最近の確認はわりと怖い」
「それは、ちょっと傷つく」
「いや、でも」
「うん」
「内容が重いんだよ」
「そっか」
依子はそこで少しだけ笑った。
笑ってごまかしたわけじゃない。分かった上で受け止めた感じの笑い方だ。
「今日」
依子が言う。
「鬼塚さんと出かける予定とかある?」
「……」
「ほら、その顔」
「いや、何でそこなんだよ」
「気になるから」
「便利ワード」
「本音だよ」
「そこなんだよなあ」
依子は歩幅を少しだけ緩めた。
「最近、鬼塚さんと外に出ること増えたよね」
「まあ」
「買い物とか」
「うん」
「学校のこととか」
「うん」
「生活の延長で」
「うん」
そこまで言われると、ちょっとぞっとする。
「お前、どこまで見てるんだよ」
「全部じゃないよ」
「“全部じゃない”って言い方が逆に怖い」
「でも、前より分かること増えたのは本当」
「何が」
「恒一くんの、家の外での時間」
「……」
「鬼塚さんとの距離感も」
「……」
依子は淡々としている。
でも、その静かさの中に、前より少しだけ譲らないものが混じっていた。
「別に」
俺はできるだけ普通に言った。
「買い物とか、そういうだけだぞ」
「うん」
「変な意味はない」
「うん」
「……何だよ」
「その“変な意味はない”って、誰に向けた説明?」
「え」
「私?」
「いや」
「自分?」
「……」
返せない。
返せない時点で、だいぶ押されている。
依子はそこで、少しだけ息を吸ってから言った。
「ねえ」
「何」
「私、鬼塚さんのこと、ちゃんと分かってるつもりはない」
「うん」
「でも、鬼塚さんが恒一くんと一緒にいる時間って、たぶん私よりずっと自然なんだよね」
「……」
「同じ部屋で起きて、同じキッチン使って、同じタイミングで帰って」
「……」
「それ、私には持ってない近さだから」
「うん」
「だから」
依子は少しだけこっちを見た。
「知らない時間が増えるの、ちょっと嫌」
また、それを言うのか。
けれど今日は、前より少しだけトーンが違う。
静かなままなのに、引いていない。
むしろ、静かなぶんだけ、余計に逃げ道がない。
「お前」
俺は小さく言った。
「それ、結構そのままだな」
「うん」
「もうちょっとごまかさないのか」
「ごまかしても、鬼塚さんに勝てないから」
「勝ち負けで言うなって」
「でも、そういうところあるでしょ」
「……」
「私、鬼塚さんみたいに“家の中の当然”にはなれない」
「……」
「だから、別のところでちゃんと取りにいきたい」
その言葉に、俺は一瞬、本当に黙った。
取りにいく。
この人は今、そう言った。
ふわふわした好意ではない。
曖昧な距離感でもない。
静かなまま、でもちゃんと欲しがっている。
その感じが、思っていたよりずっと重かった。
「怖い?」
依子が聞いた。
「……少し」
「そっか」
「でも」
俺は正直に言った。
「嫌ではない」
「うん」
依子はほんの少しだけ目を細めた。
「それならいい」
「よくない気もするけどな」
「どうして?」
「お前が納得しすぎると、こっちが余計に困る」
「困って」
「うん」
「ちゃんと考えて」
「それは」
俺は少し苦笑した。
「まあ、そうなんだけど」
ハイツへ戻るころには、さっきより少しだけ空気が重かった。
重いのに、完全に嫌でもない。
だから余計に面倒くさい。
101号室の前には、誰もいなかった。
でも、カーテンの向こうには明かりが見える。
依子は102号室の前で足を止めた。
「今日はありがとう」
「いや」
「聞けてよかった」
「何が」
「鬼塚さんとの時間のこと」
「……」
「あと」
依子は少しだけ声を落とした。
「私、譲るつもりはないって、自分でも分かったから」
「……」
やっぱり、この人は静かなまま強い。
「じゃあ、また後で」
と依子。
「後で?」
「隣だし」
「そのワードほんと便利だな」
「便利だから」
「……はいはい」
102号室のドアが閉まる。
俺は少しだけ息を吐いてから、101号室の鍵を開けた。
「ただいま」
「遅い」
と、いつもの声。
DKに入ると、朱音がテーブルでノートを広げていた。
ただし、文字はほとんど進んでいないらしい。
「……」
「何だ」
俺が言うと、
「何だではない」
と朱音。
「何を話していた」
「直球だな」
「今さら遠回しにする意味があるか」
「まあ、ないか」
「で」
「……」
「おい」
「怖いこと言われた」
「……」
朱音の眉がわずかに動く。
「どの程度だ」
「確認の域をちょっと超えてた」
「ほう」
「その“ほう”やめろ」
「続けろ」
「続けるのか」
「聞く」
「……」
俺は少しだけ椅子を引いて座った。
「知らない時間が増えるの嫌だって」
「……」
「鬼塚さんみたいな“家の中の当然”にはなれないから、別のところで取りにいく、みたいな」
「……」
「何だよ」
朱音はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……やはり敵だな」
「そのまとめ方」
「だが」
「だが?」
「分かりやすく敵対してくる方が、まだ楽だ」
「そうなのか」
「そうだ」
朱音はノートを閉じた。
「静かなやつほど、本気で譲らぬときは怖い」
「……」
「お前もそう思ったのだろう」
「……まあ」
「なら、正しい」
その言い方が妙に確信に満ちていて、俺は少しだけ笑ってしまった。
「何だ」
「いや、お前それ、めちゃくちゃ本質だなって」
「当然だ」
「でもさ」
俺は少しだけ真面目に言う。
「お前も、譲る気ないだろ」
「……」
「何その顔」
「それを」
朱音は少しだけ視線を逸らした。
「わざわざ確認するな」
「確認」
「その単語を使うな」
「じゃあ何」
「……知っていればよい」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は小さく笑った。
「静かなのも怖いけど、お前の独占欲もだいぶ分かりやすいなって」
「……うるさい」
「でも」
「何だ」
「お前がそうやって分かりやすいの、ちょっと助かる」
「……」
「何だよ」
「それを」
朱音は顔を赤くしながら言う。
「さらっと言うな」
「最近そればっかだな」
「何度でも言う」
「便利だな」
「本当にそうだからだ」
静かな子ほど、譲らないときはちゃんと怖い。
でも、それに対してうるさい方の独占欲が弱いわけじゃない。
むしろ、こっちはこっちで、逃げ道がなくて面倒だ。
要するに、どっちも面倒くさい。
そして、俺はたぶんその面倒くささの真ん中にいる。




