第26話 同居人は、外でも少しだけ隣にいたがる
ゴールデンウィーク二日目の昼前、俺は玄関の前で靴ひもを結びながら、妙な既視感に襲われていた。
こういう休日の外出前って、どうして毎回少しだけ空気が落ち着かないんだろう。
一人暮らしの頃なら、財布とスマホと鍵だけ持って、あとは適当に出れば済んだ。
どこへ行くかも、どのくらいかかるかも、途中で何を買うかも、全部自分の中だけで完結していたからだ。
でも今は違う。
「恒一」
と、後ろから声が飛ぶ。
「まだか」
「まだって言うほど待ってないだろ」
「待っている側の体感は伸びる」
「その理屈、都合いいよな」
「真理だ」
「絶対違う」
振り向くと、朱音が玄関のすぐ後ろに立っていた。
今日は制服ではなく、黒に近いロングスカートと、薄いグレーの上着。中のトップスも暗めだが、いつもの中二病全開みたいな格好ではない。むしろ普通に落ち着いていて、年相応より少し大人っぽく見える。
ただし、肩に掛けた小さめのバッグだけは、金具が多くて微妙に主張が強い。
そこだけ朱音だった。
「……何だ」
俺の視線に気づいたらしい朱音が言う。
「別に」
「見ていた」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも見るな」
「じゃあ聞くけど」
「何だ」
「気合い入ってる?」
「入っていない」
「その返しがもう入ってるやつなんだよな」
「違う」
「違わない」
「違う」
「はいはい」
今日は二人で買い物だ。
GW中に、一階組でどこか少しだけ遠くへ行く話はまだ詰めきれていない。
その前に、生活用品が少し足りなくなっていた。洗剤の詰め替え、トイレットペーパー、あと朱音が学校で使う細々したもの。ついでに俺のシャーペンの芯やノートも切れかけている。
だから、近場のドラッグストアと、少し大きめのスーパー、それから必要なら本屋も見る。そういう、地味だけど生活の延長線上にある外出だ。
なのに、朱音は朝から妙にちゃんとしていた。
「行くぞ」
と朱音。
「待て待て」
「何だ」
「鍵」
「あ」
「お前なあ」
「お前が持つものだと思っていた」
「なんでだよ」
「お前の部屋だ」
「今さらそこ分ける?」
「……」
「ほら」
「うるさい」
鍵を取って玄関を出る。
階段の下へ降りると、春の昼前の空気が頬に当たった。晴れている。少し風はあるが、寒さより明るさの方が勝っている日だ。
ハイツ水戸黄門の前の道は、休みの日らしく平日より静かだった。遠くで車の音がする。ベランダには洗濯物が揺れていて、近くの家の庭先では、たぶん家族連れが何か準備している気配がある。
「で」
と、俺は歩き出しながら言った。
「買うものメモした?」
「した」
「珍しく優秀だな」
「珍しく、とは何だ」
「いや、お前、頭の中だけで完結させようとするタイプだろ」
「その程度、記録のうちに入らぬ」
「メモ見せろよ」
「なぜだ」
「確認」
「……」
「何だよ」
「その単語、最近やけに周囲で使われていて腹が立つ」
「お前も使うだろ」
「我はよい」
「自分にだけ甘いなあ」
朱音はバッグの中からメモを出した。
想像以上にちゃんとしていた。
洗剤、柔軟剤、ノート、消しゴム、シャーペン芯、ヘアゴム、麦茶パック、台所用スポンジ。
右端には、なぜか小さく「余力があれば甘味」と書いてある。
「……」
「何だ」
「甘味」
「……補給だ」
「言い換えをやめろ」
「やめない」
「ていうか、自分で書いてるのだいぶかわいいな」
「何がだ」
「余力があれば、ってとこ」
「その程度でいちいち反応するな」
「だって、お前のこういうとこ分かりやすいし」
「……」
「何その顔」
「お前」
朱音は少しだけ眉を寄せた。
「最近、やたらと言葉が軽いな」
「軽い?」
「そうだ」
「いや、別に軽いつもりないけど」
「そうやって自然に何か言われると、返答に困る」
「それ、お前最近ずっと言ってるな」
「ずっと困っているからだ」
「大変だな」
「お前のせいだ」
「理不尽」
「事実だ」
「便利ワード」
商店街まではいかないが、それなりに店のある通りへ出る。
休日だからか、学生らしい集団や親子連れもぽつぽついる。
朱音は歩くとき、家の中より少しだけ静かだ。
というより、外にいるぶん、周囲への意識が増えているんだろう。横断歩道、車、自転車、すれ違う人。そういうものに気を配っている感じがある。
ただ――。
「近い」
俺が言った。
「何がだ」
「歩く位置」
「……」
朱音は一瞬だけ足を止めかけて、でもすぐに歩き直した。
「普通だ」
「普通よりちょっと近い」
「気のせいだ」
「いや、気のせいじゃ」
「気のせいだ」
「……」
俺は少しだけ横を見る。
たしかに、肩がぶつかるほどではない。
でも、家の中で自然に動いているときの距離と、外の歩道で並んでいる距離が、ほとんど変わらないのだ。
それが妙に面白くて、少しだけくすっとしてしまった。
「笑うな」
すぐに言われる。
「いや」
「笑っていた」
「ちょっとだけ」
「理由を言え」
「家の中と外で距離変わってないなと思って」
「……」
「お前、外でもそのままなんだな」
「何の話だ」
「だから、歩く距離」
「違う」
「違うの?」
「……」
朱音はしばらく黙って、それからかなり不本意そうに言った。
「慣れているだけだ」
「何に」
「お前の位置に」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は少し言葉を探した。
「思ったより破壊力ある言い方するなって」
「お前が聞いた」
「そうだけど」
「ならば最後まで受け止めろ」
「重いな」
「重くはない」
「わりと重い」
「お前の受け取り方の問題だ」
「便利だな」
ドラッグストアに着くと、朱音はすぐに買い物モードに切り替わった。
店内の棚を見ながら、必要なものを迷いなくカゴへ入れていく。
洗剤は詰め替え用、スポンジは硬すぎないもの、麦茶パックは量が多くて安い方。
生活のこととなると、本当に判断が早い。
「お前、買い物うまいな」
俺が言うと、
「何を今さら」
「いや、改めて」
「生活は選択の連続だ」
「それ名言っぽく聞こえるけど、今やってることはスポンジ選びだからな」
「スポンジは重要だ」
「それはまあそう」
ノート売り場へ移る。
シャーペン芯を取ろうとしたとき、通路の向こうから女子高生の二人組が歩いてきた。たぶん近くの学校の生徒だろう。
そのうちの一人が、俺を見て一瞬だけ目を止めた。
「……あれ、ちょっとかっこよくない?」
と、小さな声が聞こえた。
いや、聞こえる距離で言うな。
聞こえなかったふりをして、その場をやり過ごそうとしたのだが、横から明らかに温度の下がった声がした。
「何だ今の」
「いや」
「聞こえていた」
「聞こえてたな」
「お前」
朱音が低く言う。
「妙に自然な顔をするな」
「何て反応すりゃいいんだよ」
「知らぬ」
「理不尽すぎるだろ」
「……」
朱音はシャーペン芯の棚を見ているふりをしていたが、明らかにさっきより動きが固い。
「お前」
俺は少しだけ声を落とした。
「気にしてんの?」
「していない」
「してるだろ」
「していない」
「はいはい」
「はいはい、ではない」
「でも」
俺は小さく笑った。
「別に声かけられたわけでもないし」
「問題はそこではない」
「じゃあどこだよ」
「……」
朱音は少しだけ言葉を探す顔になった。
「外だと、お前は妙に“普通の男子高校生”として見えるのが腹立たしい」
「何その怒り」
「家の中では、もう少し別の存在だろう」
「別の存在って何だよ」
「……」
「何だよ」
「言いたくない」
「そこまで言って?」
「言いたくない」
「そこは妙に頑固だな」
でも、その“不満の向き”は少しだけ分かった気がした。
家の中では、俺は朱音にとって“同居人の恒一”だ。
生活の中にいる人間で、朝の顔も夜の顔も知っている。
でも外に出ると、俺は急にただの男子高校生として他人から見られる。
それが、何となく気に入らないんだろう。
買い物を終えて、次はスーパーへ向かう。
店の外に出たところで、今度は逆に朱音の方へ視線が集まった。
通りすがりの大学生くらいの男二人が、明らかにこちらを見て何か言っている。
「……」
「……」
「今度はお前だな」
俺が言うと、
「何がだ」
「見られてる」
「見られていない」
「いや見られてる」
「気のせいだ」
「お前、さっきの俺と同じこと言ってるぞ」
「同じではない」
「だいぶ同じ」
「……」
男二人はそのまま通り過ぎたが、その後で朱音は少しだけ歩調を速めた。
何というか、分かりやすい。
「お前も気にするんじゃん」
「うるさい」
「いや、俺のときあんな顔してたから」
「お前とは違う」
「何が」
「……」
朱音は少し黙ってから、ぼそっと言った。
「我は、見られる側の処理に慣れていない」
「そうか?」
「学校ならまだよい」
「うん」
「だが、外の知らぬ相手は面倒だ」
「……」
「勝手に何かを判断して、勝手に見てくる」
「それは」
俺は少しだけ考えた。
「まあ、分かるかも」
「お前には分からぬ」
「いや、分かるって」
「分からぬ」
「頑固だなあ」
スーパーの中では、少しだけ空気が落ち着いた。
店内の明るさと、買うものを探すという目的があるせいだろう。
野菜売り場の前で、朱音が少しだけ立ち止まる。
「……これ」
「ん?」
「安い」
「ほんとだ」
「買うべきか」
「今のうちに?」
「うむ」
「じゃあ買うか」
「そうだな」
そうやって現実的な話をしていると、さっきまでの微妙な空気も少し和らいでいく。
レジを終え、袋を手に店を出る。
そのとき、朱音がさりげなく俺の持つ袋の方を見た。
「何」
「重い方を持て」
「何で命令」
「お前の方が腕力はあるだろう」
「まあ、そうかも」
「ならそうしろ」
「はいはい」
袋を持ち替える。
すると朱音は、少しだけ歩きやすそうな顔をした。
「……」
「何だよ」
「別に」
「お前、最近その“別に”多いな」
「便利だからな」
「俺の真似すんな」
「お前のものではない」
帰り道は、行きより少し落ち着いていた。
買い物を終えたからか、互いに外の空気へ慣れたからか、それとも、さっきの微妙な嫉妬や気まずさが、一周して少しだけ馴染んだからかもしれない。
「なあ」
俺は歩きながら言った。
「今日さ」
「何だ」
「外でのお前、ちょっと面白いな」
「喧嘩を売っているのか」
「違うって」
「なら何だ」
「家の中だともっと強いじゃん」
「家の中だと、とは何だ」
「落ち着いてるっていうか、主導権あるっていうか」
「うむ」
「でも外だと、たまに分かりやすくなる」
「……」
「さっきのとことか」
「……」
「見られてるの嫌とか」
「……お前」
「何」
「それをいちいち覚えるな」
「覚えるよ」
「なぜだ」
「珍しいから」
「最悪だな」
「でも」
俺は少しだけ笑った。
「そういうお前の方が、俺は好きかも」
「……」
朱音が、本当にぴたりと止まった。
俺も慌てて足を止める。
「いや」
「今」
朱音が低く言う。
「何と言った」
「……」
「言い直せ」
「いや、その」
「言い直せ」
「外だと、分かりやすいお前の方が」
「そこではない」
「……」
「最後だ」
逃げられない。
朱音の目がそう言っていた。
「……好きかも、って」
俺が小さく言うと、
朱音は数秒、完全に止まっていた。
「……お前」
「何」
「それは」
「うん」
「言葉の選択が雑だ」
「自覚ある」
「なら直せ」
「でも今さら変に言い換えるのも違うだろ」
「違わなくはない」
「どっちだよ」
「……」
朱音は頬を赤くしたまま、少しだけ視線を逸らした。
「外で、そういうことを言うな」
「家の中ならいいのか?」
「そういう意味ではない!」
「はいはい」
「はいはい、ではない!」
「ごめん」
「……本当に」
朱音は小さく息を吐いた。
「お前は、家の外だと余計に面倒だな」
「それはお互いさまだろ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「はいはい」
けれど、そこから先、朱音は少しだけ歩く位置を変えた。
ぴったり隣ではない。
でも、少し前より近い。
肩が触れそうで触れないくらいの距離。
それが、たぶん今の返事なんだろう。
ハイツ水戸黄門が見えてくる。
見慣れた外壁。
古びた階段。
ベランダの洗濯物。
「……外でも」
と、朱音が小さく言った。
「何」
「少しだけ隣にいるのは」
「うん」
「……別に、不自然ではない」
「……」
「何だ、その顔は」
「いや」
俺は少し笑った。
「それ、だいぶ素直だなって」
「うるさい」
「でも嬉しい」
「言うな」
「また?」
「まただ」
「最近多いな、それ」
「お前のせいだ」
「便利な言い方」
「本当にそうだからだ」
同居人は、外でも少しだけ隣にいたがる。
それはたぶん、家の中だけの関係ではいられなくなってきた、ということなのかもしれなかった。




