第25話 ゴールデンウィーク初日は、予定より人が増えやすい
ゴールデンウィーク初日の朝、俺は珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
理由は単純だ。
休みの日のくせに、101号室の気配が少し落ち着かなかったからである。
手前の部屋で引き戸が開く音。
洗面所の扉が閉まる音。
流し台の前で何かを置く音。
そこに加えて、廊下の向こうでも微妙に人の出入りがある気配。
平日なら、学校へ行くまでの慌ただしさとして受け流せる。
でも今日は休みだ。だからこそ、何となく“何か起きそうな朝”に聞こえる。
「……まだ八時前だろ」
布団の上で小さく呟いてから、俺はゆっくり起き上がった。
引き戸を開けてDKへ出ると、朱音がすでにテーブルの上にマグカップを二つ並べていた。黒い長袖に薄手のカーディガン。部屋着としては普通だが、髪だけ少しちゃんとしている。つまり、本人なりに“完全なだらだらモードではない”日らしい。
「おはよう」
と俺が言うと、
「遅い」
と返ってきた。
「休みの日の朝一番、それで始めるの?」
「起きているなら、もう少し早く出てきてもよい」
「何その基準」
「休日こそ有効活用すべきだ」
「お前、連休向いてないタイプだな」
「失礼なやつだ」
「いや、でも」
俺は椅子を引いて座る。
「絶対“何もせず昼まで寝る”の苦手だろ」
「苦手ではない」
「じゃあ得意?」
「……得意でもない」
「ほら」
「だが、何かする予定があるなら整えておきたい」
「予定?」
そこまで言って、俺は少しだけ顔を上げた。
「もしかして、お前、今日のこと気にしてる?」
「何の話だ」
「何の話って、お前」
「具体性を欠くな」
「一階でだらだらするかも、みたいなやつ」
「……」
朱音は、わずかに目を逸らした。
分かりやすい。
「別に」
「その“別に”はだいたい別にじゃない」
「うるさい」
「楽しみなんだ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「はいはい」
でも、そのやり取りをしている間にも、朱音はテーブルの上に小皿を置き、買っておいたクッキーの袋を開け、なぜかコースターまで用意していた。
「……お前」
「何だ」
「それ、完全に人来る前提の準備じゃん」
「たまたまだ」
「クッキーとコースターが?」
「そうだ」
「無理あるなあ」
「お前は黙っていろ」
そこで、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
俺と朱音が同時にそちらを見る。
「……早」
俺が言うと、
「誰だ」
朱音が低く言う。
「一階住民の挙動からして、ひなたか大友」
「正解」
と、ドアを開けた瞬間に言われた。
大友だった。
部屋着の上にパーカーを羽織り、片手にポテチの袋、もう片方にコンビニのレジ袋。朝から妙に機嫌がいい。
「お前、何だその荷物」
「だらだら会の参加資格だよ」
「もう会扱いなんだ」
「そりゃそうだろ」
大友は当然みたいな顔で101号室へ上がり込んだ。
「休日に101へ来るのに、手ぶらは失礼かなって」
「そこで礼儀発揮するな」
「え、でも大事じゃね?」
「大事だけど」
「ほら」
「何でお前が得意げなんだよ」
大友はテーブルを見渡して、すぐに吹き出した。
「あ、鬼塚さん、もう受け入れ準備してる」
「していない」
と、朱音が即答する。
「してるだろ」
「していない」
「クッキーとコースター並んでるぞ」
「それは……」
「それは?」
「生活空間の秩序維持だ」
「便利ワード」
俺と大友の声がきれいに重なった。
朱音が明らかに不機嫌そうな顔をする。
「お前たち、息が合っているのが腹立たしいな」
「そこ?」
俺が言うと、
「そこだ」
「でも鬼塚さん」
大友がクッキーの袋を覗き込む。
「これ、ちょっといいやつじゃん」
「開けるな」
「まだ開けてない」
「顔が開ける気だった」
「顔で判断すんな」
「お前が言うな」
俺が言うと、大友は少しだけ肩をすくめた。
そこへ、またチャイム。
ぴんぽーん。
「……」
「……」
「次、誰だと思う?」
大友が小声で聞く。
「ひなた」
と俺。
「ひなただな」
と朱音。
開けると、ひなただった。
「こんにちはー」
と、妙に明るい声。
今日は淡い色のパーカーにロングスカートっぽく見える部屋着で、相変わらずどう見ても美少女寄りだ。手には紙袋。しかもしゃれたパン屋のロゴが入っている。
「お前まで何か持ってきたのか」
「はい」
ひなたはにこっと笑う。
「近くのパン屋さん、朝だけ安くなるやつがあったので」
「なんか急に本気だな」
「だって、だらだらするのに炭水化物は必要です」
「理屈が妙に正しい」
ひなたが中へ入る。
テーブルの上にパンを置く。
大友のポテチの横に、ひなたのクロワッサンと惣菜パンが並ぶ。
「……何だ、この光景」
俺が言うと、
「休日」
と、大友。
「終わってんな」
「まだ始まったばっかだろ」
「最高の始まりじゃん」
「その基準が怖い」
ひなたは、朱音の前にちょこんと座りながら笑った。
「鬼塚さん、今日ちょっと髪きれいですね」
「……何だ急に」
「いや、何か“今日は誰か来てもいい日です”感あるなって」
「お前も変なところが鋭いな」
俺が言うと、
「でも本当ですよね?」
ひなたが俺に振る。
「振るな」
「どうなんです?」
「……否定しきれないのが困る」
「先輩、正直」
「お前らが観測しすぎなんだよ」
そこへ三回目のチャイム。
ぴんぽーん。
「もう分かる」
俺が言う。
「分かりますね」
とひなた。
「分かるな」
と朱音。
開けると、依子だった。
「こんにちは」
いつもの穏やかな顔。
でも今日は私服だ。薄い色のカーディガンに、やわらかいスカート。学校のときより少しだけ空気が軽く見える。
「……なんでそんなに自然なんだよ」
俺が言うと、
「ひなたくんがパン持って入っていくの見えたから」
と依子。
「あと、大友くんの笑い声」
「それで?」
「じゃあ、もう始まってるかなって」
「何が」
「だらだら会」
「名称が完全に定着してるな」
依子は小さな保冷バッグを持っていた。
「お前も持ってきたのか」
「うん」
「何」
「ゼリー」
「なんで」
「ちょっと冷たいもの欲しくなるかなって」
「……」
「何その顔」
「いや、みんな妙に本気だなって」
「手ぶらの方が浮くかなと思って」
「そこまで気を回すな」
「でも」
依子は少しだけ笑う。
「参加したいの、分かりやすいでしょ」
「……そういうことをさらっと言うなって」
「本当だし」
「本当でもだよ」
依子が中へ入ると、101号室のDKは一気に狭くなった。
テーブルに四人。
俺は流し台の横にもたれる。
クッキー、ポテチ、パン、ゼリー。
まだ何もしていないのに、もう“休みの日の集まり”としてだいぶ完成している。
「何だろうな」
大友がしみじみ言う。
「予定より人増える感じ、すごくGWっぽい」
「GWっぽいって何だよ」
「決めてないのに、気づいたらみんな集まってる感じ」
「それはちょっと分かります」
ひなたがうなずく。
「ちゃんとしたイベントじゃないのに、妙に楽しいやつ」
依子は部屋の中を見渡してから、そっと言った。
「こういうの、たぶん好き」
「何が?」
俺が聞くと、
「誰かの部屋で、何するでもなく集まる感じ」
「若さの消費の仕方が地味だな」
大友が言う。
「でも分かるだろ?」
と俺が聞くと、
「分かる」
大友は即答した。
「だって、変にどこか出かけるより“休みっぽい”ときあるし」
その会話を聞きながら、朱音は妙に静かだった。
いや、静かというより、“主導権の取り方を測ってる”顔だ。
「何だ」
俺が聞く。
「何でもない」
「その顔で?」
「何でもない」
「大体そういうとき、何かあるだろ」
「……」
朱音は一度だけ依子を見て、それから俺を見た。
「部屋の中心が、妙に定まらぬだけだ」
「中心?」
ひなたが首を傾げる。
「どういう意味です?」
「要するに」
と俺が訳す。
「誰がどこでどう仕切る感じになるか、ちょっと落ち着かないんだろ」
「言語化するな」
「いや、今のは分かる」
大友が言う。
「101って、恒一の部屋だけど、鬼塚さんの生活圏でもあるし、白沢さんは隣だから普通に入ってくるし、ひなたは空気で座る場所決めるし」
「お前だけ急に自分を客観視するな」
「観測者だから」
「もういいよそれは」
依子が、その話を静かに聞いていたあとで言う。
「じゃあ、鬼塚さんが決めればいいんじゃない?」
「え」
と俺。
「何を」
「今日の空気」
「何だそれ」
「こういうとき、家の人が一番落ち着く形にした方がいいでしょ」
「……」
朱音が少しだけ止まった。
「我が?」
「うん」
「……」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ、いいじゃない」
「お前、さらっと厄介な球投げるな」
俺が言うと、
「そう?」
依子は穏やかな顔のままだ。
「鬼塚さんの方が、ここでは自然でしょ」
「……」
「それは」
大友がぽつりと言った。
「ちょっと分かるな」
「僕も」
ひなたも頷く。
「鬼塚さん、生活の中での位置がちゃんとある感じします」
「……」
「おい」
俺が朱音を見ると、
朱音は明らかに困った顔をしていた。
「何だ、その視線は」
「いや」
「何だ」
「どうするのかなって」
「……」
「決めればいいじゃん」
依子が言う。
「お茶出す順とか、座る位置とか」
「そこまで?」
俺が聞くと、
「そういうの、案外大事だよ」
依子は静かに言う。
「誰の部屋で、誰がどう過ごすかって、その場の空気になるし」
たしかにそうかもしれない。
雑談のようでいて、こういう空気の取り方って、どの家でも微妙に違う。
朱音はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……では」
「お」
大友が身を乗り出す。
「お前は黙れ」
朱音が即座に刺す。
「はい」
「パンはそこへまとめろ」
と、ひなたに。
「はい」
「ゼリーは冷蔵庫で冷やせ」
と、依子に。
「うん」
「ポテチは今開けるな。あとで散る」
と、大友に。
「めちゃくちゃ的確だな」
「当然だ」
「で、俺は?」
俺が聞くと、
「お前は湯を沸かせ」
「……」
「どうした」
「いや」
俺は少し笑った。
「お前、こういうときほんと強いな」
「そういうことを今言うな」
「褒めてるのに」
「分かっているから困る」
それでも朱音は、さっきまでより明らかに落ち着いて見えた。
お茶を入れ、パンを切り分け、ゼリーを冷やし、クッキーを小皿へ移す。
気づけば全員が何かしら動いていて、101号室はちゃんと“みんなでだらだらする場”になっていた。
「で」
大友が早々にパンをかじりながら言う。
「GWどうする?」
「結局そこに戻るのか」
俺が言うと、
「戻るだろ」
「まあ、そうか」
「だって、このまま終わったらただの食事会じゃん」
「もう十分そうだけど」
「それはそれ、これはこれ」
ひなたがテーブルに肘をつきながら言う。
「少し遠くがいいですよね」
「少し遠く?」
依子が聞く。
「はい。近すぎると普通の休日で終わっちゃうし、遠すぎると大げさだし」
「それ分かる」
俺がうなずく。
「“休みっぽい外出”って、そういう距離感だよな」
「お前、たまにいいこと言うよな」
大友が言う。
「たまにって何だ」
「水戸の近くで」
依子が指折り数えるみたいに言う。
「ちょっと歩いて、少し見て回れて、何か食べられるところ」
「それ、わりと条件多いな」
「でもあるでしょ?」
「まあ、ある」
「鬼塚さんは?」
ひなたが聞く。
「どんなとこがいいですか?」
「……」
朱音は少し考え込んだ。
その顔は、嫌そうではない。
むしろ、ちゃんと考えている顔だ。
「騒がしすぎぬ場所」
「うん」
「だが、完全に静かすぎるのも微妙だ」
「へえ」
大友が言う。
「そうなんだ」
「人の流れはあってよい」
朱音は続ける。
「ただし、押し合うほどではない方がよい」
「結構細かいな」
俺が言うと、
「当然だ」
「あと?」
「歩く距離は、適度」
「適度が一番困るんだよ」
「お前基準で言うな」
「じゃあ、鬼塚さん基準で」
依子が言うと、
朱音は少しだけ詰まった。
「……長すぎると疲れる」
「そこ素直だな」
俺が言うと、
「正確な申告だ」
「便利ワード」
「お前ほんと好きだな、それ」
会話の中で、少しずつ“行くかもしれない場所”の輪郭ができていく。
まだ決まってはいない。
でも、決まっていないこと自体が妙に楽しい。
それはたぶん、予定の内容より、“誰と行くのか”がすでに少し意味を持っているからだ。
だらだら会は、結局昼過ぎまで続いた。
途中でポテチが開き、ゼリーがなくなり、ひなたがパンの袋をまとめ、大友が「昼どうする?」と言い出したところで、ようやく全員が“もうだらだらしきったな”という顔になる。
「……帰るか」
俺が言うと、
「同じ一階なのに“帰る”って変ですね」
ひなたが笑う。
「たしかに」
依子も笑う。
「でも、なんかそういう感じする」
「共有ラウンジ扱いされてるな、完全に」
「前から言ってるだろ」
大友が言う。
「101はもうそういう部屋だって」
「認めたくないなあ」
立ち上がる気配が部屋に広がる。
でもその前に、依子がふと俺を見た。
「今日、よかったね」
「何が」
「何するでもないのに、ちゃんと休日っぽかった」
「……」
「それは分かる」
と思わず俺も言う。
「変に頑張ってどこか行くより、こういうのも休みって感じする」
「うん」
依子はそのまま少しだけ視線を和らげた。
「こういうの、またやりたいな」
「また?」
「うん」
「……」
「鬼塚さんが許せば」
依子がそう言うと、
朱音は少しだけ顔をしかめた。
「許可制にするな」
「じゃあ?」
「……事前通達だ」
「そこは必要なんだ」
「必要だ」
「なるほど」
依子は笑った。
「じゃあ、次はちゃんと伝える」
「……うむ」
その返答が、すでに“次がある”ことを認めているのが面白くて、俺は少しだけ笑ってしまった。
「何だ」
と朱音。
「いや」
「何だ」
「お前、こういうとこだいぶ丸くなったなって」
「そう見えるか」
「見える」
「……」
「何その間」
「悪いことではないなら、別によい」
「うん」
「だが、お前に言われると少し癪だ」
「理不尽だなあ」
ひなたと大友が先に出ていく。
依子も、その少しあとに102号室の前で足を止めた。
「またね」
「うん」
俺が返すと、
依子は小さく笑った。
「次の予定、ちゃんと決まったら教えて」
「また確認か」
「確認だよ」
「怖いな」
「やめないよ」
「そこはもう知ってる」
依子が102号室へ入ったあと、101号室に静けさが戻る。
さっきまで五人いたせいで、その静けさにはまだ少し熱が残っていた。
皿の位置。
食べかけのクッキーのかけら。
空になったペットボトル。
そういうの全部に、“さっきまで人がいた”感じがちゃんと残っている。
「……」
「……」
朱音が、ふと小さく息をついた。
「疲れたか」
俺が聞くと、
「少し」
「だよな」
「だが」
「だが?」
「悪くはない」
「またそれか」
「語彙の安売りはしない」
「はいはい」
俺は笑った。
「でも、お前今日、最初よりだいぶ普通だったぞ」
「何がだ」
「みんなでいるの」
「……」
朱音は視線を少しだけ窓の方へやった。
「家の中だったからだろう」
「それもあるか」
「外で同じだけ騒がれると、たぶん多少は疲れる」
「正直でよろしい」
「お前のそういう言い方は腹が立つな」
「でも本音だろ」
「……本音だ」
その素直さが、最近少しずつ増えている。
ゴールデンウィーク初日は、予定より人が増えやすい。
でも、その増えた人たちの中で、前より楽に笑っている自分たちがいるのも、たぶん本当だった。




