第2話 虚飾の福音
骨肉がアスファルトにすり潰される、酷薄な破砕音。
それが、少年の鼓膜を震わせた最後の現だった。肺から押し出された血液が喉を詰まらせ、視界が真っ赤な飛沫に染まり――次の瞬間、彼を襲ったのは、凍り付くような無色透明の静寂だった。
(……死んだ、のか)
痛みさえ、とうの昔に置き去りにされていた。闇の向こうで、誰かの嘲笑う声が聞こえた気がした。だが、その輪郭さえも霧のように薄れていく。
「――可哀想な、愛の欠片たち」
頭上から降り注いだのは、銀鈴を転がすような、あまりに澄んだ声だった。
彼が重い瞼を持ち上げると、そこは上下も左右も判然としない、果てしない白銀の空間だった。
目の前に立っていたのは、一人の女性。
あの雨の夜道で出会った「謎の美女」と同じ顔をしていた。しかし、今の彼女は神々しい純白の法衣を纏い、背後には幾重もの後光を背負っている。その姿は、見る者の魂を丸ごと跪かせるような、圧倒的な「聖性」に満ちていた。
「私は光の女神、ステラ。絶望の淵で、愛する者のために己の命を投げ出したあなたを、私は見捨てることができなかった」
女神は、慈悲深い聖母のような微笑みを浮かべて少年の頬を撫でた。その指先から流れる温かな光が、彼の砕け散ったはずの心身を瞬く間に修復していく。
「女神……。なら、教えてくれ。歩はどうなった。あいつは……!」
「御覧なさい。あなたの無垢な祈りの結果を」
ステラが白亜の袖を優雅に振ると、空間に巨大な黄金の鏡が浮かび上がった。
そこに映し出されていたのは、見慣れた無機質な病室。そして、ベッドの上で穏やかな寝息を立てる、彼が何よりも大切にしている少女の姿だった。
「歩……っ!」
「安心なさい。今は私の加護で、彼女を蝕む病の進行を止めています。ですが、これはあくまで一時的な奇跡。彼女を真に救い、再び健康な身体で目覚めさせるには、膨大な『聖なるエネルギー』が必要なのです」
少年は鏡にすがりつくように見入った。そこに映る少女は、以前よりも肌の色艶が良く、まるで深い眠りについているだけのようだった。
「どうすればいい。何でもする。俺の魂でも何でも、好きに持っていけ」
彼の悲壮な叫びを聞き、女神ステラは悲しげに目を伏せた。そして、真綿で首を絞めるような、甘く残酷な言葉を紡ぐ。
「今、私が守護する異世界『アスガルド』は、邪悪な魔族の手によって滅亡の危機にあります。魔族とは、人間の苦しみや絶望を糧とし、命を喰らう醜悪な獣。奴らは今、この世界のすべてを闇に染め上げようとしています。……ですが、それだけでは終わらない」
ステラは少年の瞳を真っ直ぐに見つめ、声を震わせた。
「奴らの果てなき飢えは、やがて次元の壁さえも穿つでしょう。この世界を飲み込んだ魔王は、次なる餌場を求めて、あなたのいた元の世界へも『門』を開く。そうなれば、病室で眠る無防備な彼女の魂も、奴らの毒牙にかかり永遠に貪られることになります。……愛する者を守るため、異世界へ渡り、災厄の元凶を断ち切る勇気はありますか?」
「……当たり前だ。あいつに指一本、触れさせてたまるか」
少年の瞳に、ドロドロとした暗い殺意の炎が宿った。
愛する少女の平穏を脅かす存在。それを想像しただけで、五臓六腑が煮えくり返るような怒りが全身を支配した。
「よろしい。今日より、あなたは過去の脆き名を捨てなさい。あなたは光の勇者『カイル』。私が授けるこの聖剣は、魔族の偽りの大義を切り裂き、彼女の未来を切り拓く唯一の救済となるでしょう」
眩い閃光とともに、少年の身体は、勇者の身体に作り変えられ白銀の鎧に包まれる。その手には黄金の輝きを放つ聖剣が握られている。
その姿に、一ノ瀬駆の面影はない。
カイルとなった青年は、女神の開いた門をくぐり異世界アスガルドに今降り立とうとしている。
――その頃。
異世界アスガルドの北の果て。絶えず猛吹雪が荒れ狂う極寒の大地に、魔族の都はあった。
黒氷と黒曜石で築かれた城のバルコニーに立ち、冷酷なる『氷の魔王』――ルナレスは、眼下に広がる難民キャンプを静かに見下ろしていた。
そこにいるのは、光の女神を狂信し、「聖戦」の名の下に進軍してくる人間たちの軍勢によって住処を奪われ、傷つき、凍えている魔族の民たちだった。
「……あの方たちが、また」
ルナレスが小さく呟くと、吐息が白く凍り、宙で砕けた。
彼女の容姿は、人ならざる異形なまでに美しかった。雪よりも透き通った白銀の髪、血のように赫く燃える瞳。そして背中には、強大な魔力の結晶である三対の氷の翼が広がっている。
彼女には、過去の記憶がなかった。
絶望の底、名もなき暗闇の淵を漂っていた自分の魂を拾い上げ、この冷たくも美しい肉体と強大な力を与えてくれたのは、深淵に座す『闇の神』だった。
ルナレスにとって、闇の神は命の恩人であり、絶対の信仰対象であった。そして、人間に蹂躙され、滅びの運命を待つばかりだった魔族の民たちもまた、彼女を「闇の神が遣わした最後の救世主」として崇め、すがりついている。
「魔王様。人間の砦に、憎き光の女神が遣わした新たな『勇者』が降臨したとの報せが……。先陣を切った我らが同胞は、その禍々しい光の剣によって、一瞬で灰にされたそうです」
側近の魔将が、恐怖に牙を震わせながら報告する。
ルナレスは、自身の白く細い指先を見つめた。この手はすでに、多くの人間の血を吸っている。
「……これ以上の流血は望まないけれど。私の民を、私の居場所を脅かすというのなら、私は容赦しないわ」
その声は、極北の風よりも冷たかった。
しかし、彼女の心臓の奥深く、堅い氷で覆われた魂の中心には、自分でも理由のわからない「温かな記憶の残滓」が、痛いほどに疼いていた。
誰かの不器用で大きな手に、強く握られていた感覚。
自分が傷つき、泣きそうになった夜、すべてを投げ打ってでも自分を守ろうとしてくれた、誰かの不屈の背中。
顔も、名前も、声すらも思い出せない。
だが、その見えない温もりこそが、彼女が狂気の世界で自我を保ち、理不尽な暴力から民を守り抜こうとする唯一の原動力だった。
(いつか……。この戦いを終わらせて、平和な世界を作れたら。あの温かい手を持つ人に、会えるのかしら)
「光の勇者」と「氷の魔王」。
お互い信じる正義のために、最も残酷な殺し合いの幕が、静かに上がろうとしていた。
AIによる文章が含まれています。




