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救済のレクイエム ―俺の剣は、偽りの光の下で―  作者: 虎徹
【第一幕:偽りの英雄譚】

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第1話 自己犠牲の果て

深夜二時。ひび割れた安アパートの鉄扉を開けると、ツンと鼻を突く安酒とタバコの臭いが、一ノ瀬駆いちのせ かけるを真っ向から殴りつけた。


「……遅えぞ、駆。何時だと思ってんだ」


リビングのソファにふんぞり返り、顔を赤く染めた叔父が舌打ちをする。テーブルの上には、駆の稼ぎとは到底釣り合わない高級なウィスキーの空き瓶と、豪勢なデリバリーピザの残骸が散乱していた。その向かいでは、けばけばしい化粧をした叔母が、薄ら笑いを浮かべて泥だらけの駆を見下ろしている。


「ほんと、要領が悪いんだから。高校も行かずにバイトばかりしてるくせに、これっぽっちしか稼げないの?」


叔母は駆がテーブルに置いた茶封筒の中身を無造作に引きずり出し、汚い指で数え始めた。

駆の奥歯が、ギリリと嫌な音を立てる。両親が不慮の事故で命を落としてから一年。駆と妹のあゆみを引き取ったこの叔父夫婦は、両親が残した莫大な生命保険と遺産を「未成年には管理できない」という名目で全て奪い取った。そればかりか、重い病に倒れた歩の治療費を払うことすら拒絶し、今は駆を金の生る奴隷として飼い殺している。


「……歩の治療費に、回してくれ。今月分が、まだ払えてない」


血の滲むような声で絞り出した駆の言葉に、叔父は忌々しげに鼻で嗤った。


「あの金食い虫にか? 馬鹿言え。医者だって見放してるじゃねえか。早く死なせた方が本人のため、いや、俺たちの……お前のための恩情ってやつだろ?」

「てめぇ……!」


殺意が全身の血を沸騰させる。視界が真っ赤に染まり、テーブルの上の瓶でその頭を叩き割ってやりたい衝動に駆られた。だが、ここで叔父を殺せば、あるいは自分が捕まれば、歩を看病する人間がいなくなる。駆は己の拳を握りしめ、爪が掌に食い込んで血が滲むほどの痛みに耐えた。


「……行ってくる」


これ以上ここにいれば、本当に狂ってしまいそうだった。限界まで酷使した肉体は悲鳴を上げていたが、駆は休む間もなく踵を返し、再び深夜の闇の中へ飛び出した。


外はいつの間にか、氷のように冷たい土砂降りの雨に変わっていた。傘もささず、ずぶ濡れのまま病院へ向かう。


面会時間はとうの昔に過ぎている。しかし、駆の家庭の事情を知るベテランの夜勤看護師は、裏口に立つ濡れ鼠の駆を見て悲痛な顔で頷き、無言でスタッフ用の通路を開けてくれた。

静まり返った深夜の病院は、まるで巨大な墓所のようだった。規則的なモニターの電子音だけが、命のカウントダウンのように無機質に響いている。四階の奥、消灯された薄暗い大部屋の一角。そこが歩の居場所だった。


カーテン越しに漏れるわずかな常夜灯の光が、やせ細った妹の輪郭を浮き彫りにする。


「……お兄、ちゃん?」


酸素マスク越しの、掠れた声。駆は弾かれたようにベッドの傍らに膝をつき、点滴の管がいくつも繋がれた細い手を両手で包み込んだ。


「ごめん、起こしたか」

「ううん……お外、雨降ってるの? お兄ちゃん、びしょ濡れ……」

「平気だ。ちょっと走ってきただけだから」


駆は必死に口角を上げ、無理に笑顔を作ったが、歩の虚ろな瞳からは大粒の涙がツーと頬を伝い落ちた。


「ごめんなさい……私のせいで、お兄ちゃんが苦しんでる。知ってるよ、あの人たちがお兄ちゃんを酷い目に遭わせてること……っ」

「歩、気にするな! 俺は――」

「もう、いいよ」


歩の言葉が、駆の心臓を冷たい刃で深々と貫いた。


「治療、やめよう? もう痛いのも、お兄ちゃんがボロボロになっていくのを見るのも……嫌だよ。私がいなくなれば、お兄ちゃんは自由になれる……」


泣きながら、それでも兄を案じて笑おうとする妹の顔を見た瞬間、駆の中で張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切断された。

違う。お前がいない世界に、俺の自由なんてない。両親を失ったあの日から、どんな地獄のような日々でも、お前が生きているということだけが俺の生きる意味だったんだ。


「馬鹿なこと言うな! 絶対に俺が治す。絶対にだ……!」


それは妹へ向けた言葉であると同時に、己に迫り来る絶望を打ち消すための虚しい叫びだった。


病院を逃げるように飛び出した駆は、どしゃ降りの雨の中を泥を跳ね上げながら歩いていた。

金が要る。もっと金が。臓器でも売るか? 強盗でもするか? 倫理や道徳など、とうに泥水の中に捨てていた。妹が助かるなら、悪魔に魂を売ったって構わない。


その時だった。

点滅する古い街灯の下に、「それ」は立っていた。


異常な光景だった。滝のような雨が降っているというのに、その女の周囲だけ雨粒が不可視の壁に弾かれるように避けて落ちている。濡羽色の長い髪、透き通るような白い肌、そして闇夜よりも深い漆黒のドレス。人間離れした、息を呑むほどの美貌。

女は、泥と雨にまみれた駆を見つめ、三日月のように美しく紅い唇を吊り上げた。


「――ねえ。何でも願いが叶う方法があるとすれば、あなたはどうするかしら?」


頭の中で生物としての本能が警鐘を鳴り響かせる。常軌を逸した存在。関わってはいけない。だが、極限まで追い詰められた今の駆には、その言葉が天から垂らされた蜘蛛の糸に見えた。


「……なんだってする。俺の命と引き換えにしてでも、妹を救ってくれるなら!」


血を吐くような悲痛な叫びを上げる駆に対し、謎の美女は歓喜に目を細めた。


「ええ、いいわ。あなたのその重い覚悟、確かに受け取ったわ。契約成立よ」


その直後だった。


――ドンッ!!!


雨音を切り裂くような、暴力的な破砕音。

駆の身体は、赤信号を無視して猛スピードで突っ込んできた大型トラックに撥ね飛ばされていた。


宙を舞う世界。アスファルトに叩きつけられた瞬間、全身の骨が粉々に砕け散る生々しい音が脳内に反響した。口から大量の血がごぼりと溢れ出す。痛みを通り越し、己の肉体が破壊されたという事実だけが遅れてやってくる。


(あ……れ……?)


濁りゆく視界の先。血だまりの中に倒れ、ピクピクと痙攣する駆を見下ろしながら、あの美女がゆっくりと歩み寄ってきた。

彼女はしゃがみ込み、駆の耳元で甘く、そして氷のように冷たい声で囁いた。


「いいわ。その願い――一番残酷な形で叶えてあげる」


その顔に張り付いていたのは、慈愛など微塵もない。底知れぬ悪意と、退屈しのぎの『遊戯』を楽しむ、冷酷な笑みだった。


(騙さ……れた……歩、逃げ……!)


真実に気づいた時には、遅すぎた。

猛烈な怒りと後悔、そして病室に残してきた妹への未練に心を焼かれながら、一ノ瀬駆の意識は完全な暗闇へと引きずり込まれていった。

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