第六章 青の噂
春が来て、夏になった。
涼は走り続けた。
勝ち続けた、とは言い切れない。負けた夜もあった。しかしその数より、勝った夜の方が多くなっていた。いつからそうなったのかは、自分でも正確にはわからなかった。気づいたら、そうなっていた。
インテグラが変わっていた。
エアクリーナーから始まった改造は、足回りに及び、ブレーキに及び、エンジンの深いところにまで届いていた。金をかけた分だけ速くなった、というほど単純ではなかった。パーツを換えるたびに走り方も変えた。車に合わせるのではなく、車と一緒に変わっていった。
ヤマネは時々、ぽつりと言った。
「まるで、別の奴みたいだナ」
インテグラが、ではなかった。涼が、だった。
大黒PAで顔見知りが増えた。名前を覚えてもらうより先に、青いインテグラという認識で広まっていた。車で呼ばれる。この場所ではよくあることだった。
ある夜、S2000に乗る男と走った。
名前は聞かなかった。よく磨かれた赤いボディ。アクセルの踏み方が強引で、コーナーで無理をする癖があった。直線は速い。しかしカーブのたびに帳尻が合わなくなる。
涼は三コーナー目で前に出た。
最終的にどれくらいの差がついたかは、振り返らなかったから知らない。
大黒に戻ると、S2000の男は先に着いていた。車から降りずにいたが、涼が停めると窓を開けた。
「お前、どのくらいやってる」
「一年半くらい」
男はしばらく黙った。それから何かを言いかけて、やめた。代わりに一枚の名刺を差し出した。
「ここに行ってみろ。オレの知り合いのショップだ。足を見てもらえ」
「なんで」
「お前の足、まだ全部引き出せてないから」それだけ言って、窓を閉めた。
涼は名刺を見た。店の名前と住所だけが書いてあった。
ショップに行ったのは翌週だった。
店主は無口な男で、涼のインテグラを一周見て回っただけで「わかった」と言った。何がわかったのかは教えてもらえなかった。作業が終わって、乗った瞬間にわかった。
路面の情報が、変わっていた。
アスファルトの継ぎ目が、タイヤの微妙なグリップの変化が、ハンドルを通じて手に届いてくる解像度が、別物だった。足というのは速度を上げるパーツではなかった。路面を読むための感覚器官だった。
「面白いだろう」と店主は言った。「車ってのはナ、速くする前に、まず聞こえるようにするんだ。路面の声が聞こえない車で踏んでも、怖いだけだヨ」
涼は何も言わなかった。
言葉の意味が、腕を通じて伝わってきていたから。
その夜、湾岸を走っていた時のことだ。
後ろから来た車が、急に速度を落とした。
タービンの音がするシルビアだった。涼を抜こうとする気配があったのに、並んだ瞬間にアクセルが緩んだ。そのまま涼の後ろについて、次の出口で降りていった。
奇妙だった。
翌日、大黒で別の男からその話を聞いた。
「昨日、湾岸で蒼い残光が出たって聞いたぞ」
「……蒼い残光が?」
「シルビアの奴が見たって言ってた。青いセダンが前にいて、並ぼうとしたら怖くなってやめたって」男は笑いながら続けた。「お前、何か見なかったか」
涼は少し考えた。
「見てない」
「そうか。……まあ、見間違いだろう。あれが湾岸ランプじゃなくて一般区間に出るわけがない」
男は笑いながらコーヒーを飲んだ。
涼は何も言わなかった。
青いセダン。夜の首都高。後ろにつかれた相手が、速度を落とした。




