第五章 山と父
大黒PAの端に、二台が並んで停まっていた。
エンジンを切ったあとの静けさの中で、涼はさっきの走りを頭の中で反復していた。三コーナー目のアンダー。ブレーキングが一テンポ遅かった。
隣でオオタが煙草を吸っていた。
「山、って言ってたな」
煙が上がった。オオタは返事をしなかった。しなかったが、否定もしなかった。
「どこで走ってた」
「箱根だ」オオタは外を向いたまま言った。「大学の頃から」
「なんで山から入った」
少し間があった。
「親父が山で走ってたから」
それだけ言って、また煙草を吸った。涼は何も言わなかった。続きを待った。
「EK9乗ってた。オレのより古い型だ。週末になると夜中に出かけて、朝方に帰ってくる。……ガキの頃は、何してるのかわからなかった」
煙草の火が短くなっていく。
「中学の時に初めて助手席に乗せてもらった。箱根の夜だ。……怖かったヨ。でも途中から怖くなくなった。なんでかわからないけど、気持ちよかった」
オオタはそこで少し笑った。笑ったが、目が笑っていなかった。
「それから親父が死んだ」
オオタが十五の時のことだ。
父親は首都高で逝った。湾岸線の、特定のカーブ。単独だった。相手はいなかった。
なぜそこにいたのか、誰にもわからなかった。
山しか走らない男が、なぜその夜だけ首都高にいたのか。何を追いかけていたのか。速度がどれくらい出ていたのか。調べればわかることもあったかもしれないが、母親は何も調べなかった。オオタも聞かなかった。
聞けなかった。
葬式の後、父親のEK9が手元に残った。走れる状態ではなかった。しかし母親は売らなかった。オオタも売らなかった。
ガレージに置いたままにした。
高校に入って、大学の推薦合格を勝ち取って、原付を手に入れて、箱根を走り始めた。父親がそうしていたから、という理由だけで。うまい理由なんてなかった。
気づいたらそうしていた。
やがて免許を取って、中古の車を買って、また箱根を走った。ある夜、ふと気づいたことがあった。
コーナーの立ち上がりで、アクセルを踏む感覚が、記憶の中の助手席と同じだった。
父親の運転と、同じだった。
「EK9はまだあるのか」
「ある」オオタは煙草を踏み消した。「直した。乗れるようにした。……でも、乗ってない」
「なんで」
「乗ったら、わかる気がするから」
何が、とは聞かなかった。
「首都高に来たのは」
「一年前だ。山に速い奴がいなくなった。……ていうか、オレが速くなりすぎた」
自慢ではなかった。ただの事実として言っていた。
「それで湾岸に来て、黒いFitを見た」
「そう」
涼は遠くを見た。湾岸の夜景が、コンクリートの壁の向こうに広がっている。
「親父も、あれを見たんじゃないかと思う」とオオタは言った。静かに。「首都高にいた理由が、それしか思いつかない。山の人間が湾岸に深く入るには、何か理由がいる。あのFitを見て、追いかけて……」
続きは言わなかった。
涼は何も言わなかった。
言えることが、なかった。
二人の間で、風が通り過ぎた。
「行くか」とオオタが言った。
「行こう」
エンジンがかかった。




