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NIGHTCROSS(ナイトクロス)  作者: wisemanjr4
LAP.2 崇高のR編

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第六十三章 床

ミウラは、涼の話を最後まで聞いてから、インテグラのフロントに回った。


しゃがみ込んで、バンパーの下に懐中電灯を差し込む。光が路面すれすれを舐めた。


「三百五十と言ったんだな。イイダが」


「音で数えたそうです」


「あの男の耳なら、外れてない」


ミウラは立ち上がって、膝の埃を払った。


「ウイングの形を覚えてるか」


「低かったです。リアに一枚。それだけで、車が路面に張りついてました」


「ウイングじゃない」


涼は黙った。


「三百を越えたら、ウイングが稼ぐ分は知れてる。本命は床だ」ミウラは懐中電灯をインテグラの腹に向けた。「車体の下に、空気を流す。流れが速くなると、圧が落ちる。落ちた分だけ、車が地面に吸われる」


「床が、吸う」


「お前、車体の下から風が引き込まれていくのがわかった、と言ったろう」


「はい。見えたわけじゃないですが」


「見えてなくていい。それが答えだ」


ミウラは作業台に戻って、ノートを開いた。鉛筆で、車の断面を描いた。前が低く、後ろが跳ね上がっている。その間を、矢印が一本、まっすぐに抜けた。


「フロントのリップ。アンダーパネル。後ろのディフューザー。全部で一枚の仕事だ。一ヶ所だけ足しても、空気が乱れて逆に浮く」


「どのくらい、要りますか」


「速度による」ミウラは鉛筆を置いた。「二百までは要らない。二百五十から、効き始める。三百で、車の重さが変わる」


「変わる」


「実際の重量は同じだ。ただ路面に押しつけられる力が、足される。そのぶん、タイヤは遅れずに仕事をする」


涼はノートを見た。矢印の線が、紙の上で一本だけ、迷わずに伸びていた。


「パワーを足せば、速くなる。誰でも思いつく」ミウラは続けた。「だが三百を越えた世界は、パワーの話じゃなくなる。どれだけ路面に居続けられるか、だ」


「居続ける」


「走る車は、いつも浮こうとしてる。そいつを押さえつけて、地面に縛りつける。速さの裏側は、そういう話だ」


シャッターの外で、トラックが通った。床が微かに震えた。


「だから、あのセダンは」


涼が言いかけて、止まった。


ミウラの手が、一瞬だけノートの上で止まっていた。


「あの車の床を、見たことがあるんですか」


「ない」


即答だった。


「ただ、昔、床の話ばかりする男がいた」


ミウラは鉛筆を拾い上げた。ノートの矢印の端に、小さく点を打った。


「そいつが、ここの作業台で、同じ絵を描いた」


「誰ですか」


ミウラは答えなかった。


珈琲を二つ用意した。一つを涼の前に置いた。湯気が、ノートの矢印の上をゆっくりと流れた。


それから一週間、ショップに通った。


最初の三日は、測定だった。インテグラの車高。ホイールの位置。フロントバンパーの下から地面までの距離。ミウラは、巻き尺と水平器を手に、車の周りを何度も回った。


「低すぎるな」


「低いと、効くんじゃないですか」


「路面に当たる。そこで空気が死ぬ」ミウラは水平器の気泡を見た。「必要なのは、低さじゃない。均一さだ。前も後ろも、同じ隙間で空気を通す」


四日目に、アンダーパネルが届いた。


平らなアルミの板だった。ミウラは、それをボディの下に当てて、ボルト穴の位置を鉛筆で写した。


「穴は開けない。既存の穴を使う」


「なぜですか」


「剛性を落としたくない。補強に何ヶ月かけたと思ってる」


涼は笑った。ミウラも、口の端だけを動かした。


五日目に、フロントのリップを付けた。


地面すれすれまで伸びた、黒い板だった。車の顔つきが変わった。ノーズが、低く構えた。


「どうだ」


「怖いです」


「そうか」ミウラは頷いた。「怖い間は、正しい」


六日目は、後ろだった。


ディフューザーは、リアバンパーの下に、斜めの板を何枚も並べた形をしていた。空気を整える羽根のような、ただの板切れのような、どちらにも見えた。


「これで、床の空気を逃がす」


「逃がす」


「前から入れた空気を、後ろで抜く。抜けが悪いと、全部が詰まる」


七日目の夕方、ミウラは工具を置いて、インテグラを一周した。


「上がった」


その夜、湾岸に出た。


四速。ブーストが立ち上がる。背中に圧が来る。メーターが二百を越えた。


足の裏に、何かが加わった。


ステアリングが、重くなった。


重いのは、悪い意味ではなかった。手の中に、路面の手応えが増えた。タイヤが地面を踏んでいる感触が、腕の骨まで届いてくる。


二百二十。二百三十。


車体が、沈んだ。


実際に沈んだわけではなかった。ただ、そう感じた。見えない手が、屋根を上から押さえつけている。


「……ああ」


声が出た。


ブースト1.5。K20Aが七千五百で鳴いた。二百四十。


ステアリングを、ほんの少し切ってみた。


ノーズが、遅れずに向いた。


昨日までなら、この速度で切れば、フロントが一瞬だけ迷った。今夜は迷わなかった。迷う前に、もう向いていた。


涼はアクセルを緩めなかった。


二百五十。


照明が、細い線になって流れた。壁との距離が、消えていく。


ただ、一つだけ、わかったことがあった。


足りない。


まだ足りない。


ミウラの言った通りだった。ここから先は、パワーの話ではなかった。二百五十を越えて、涼のインテグラはようやく地面に居続けられるようになった。ただ、それは入口でしかなかった。


あの蒼いボディは、三百五十で、この景色を見ていた。


その先の景色を、涼はまだ知らなかった。


アクセルを緩めた。


速度が落ちていく。落ちていく間も、車体は路面に張りついたままだった。


大黒のランプで減速して、PAに入った。


エンジンを切った。ターボの余熱が、静かに鳴った。


涼は、フロントの下を覗き込んだ。


黒いリップが、照明の下で、路面すれすれに浮いていた。


指で触れた。冷たかった。


PAの端に、黒いFitが停まっていた。


イイダはボンネットに背中を預けていた。足元の缶は、今夜は開いていた。


「顔が変わった」


「リップを付けました」


「見ればわかる」


イイダは、インテグラの下を、しゃがみもせずに一瞥した。


「床か」


「ミウラさんに言われました」


「そうか」


イイダは缶を傾けた。喉が動いた。


「あの人は、床の話が好きだ」


涼は顔を上げた。


「知ってるんですか」


「昔、一度だけ聞いた。違う場所でな」イイダは缶を足元に戻した。「それだけだ」


「誰から」


イイダは答えなかった。


風が通り過ぎた。照明の光が、黒いボディの上で揺れた。


「次は、二百五十から先だ」


「はい」


「そこから先は、ブレーキを踏む場所が変わる」


「変わる」


「手前じゃない。もっと、ずっと手前だ」イイダは言った。「それを知らないと、壁に近づく」


涼は、頷いた。


「教えてもらえますか」


「教えない」イイダは言った。「走って、身体で知れ。ただし」


「ただし」


「一人では走るな」


イイダはFitのドアを開けた。乗り込んで、エンジンをかけた。静かな音が、PAに低く広がった。


黒いボディが、ゆっくりとPAを出ていった。


涼は、インテグラのボンネットに手を置いた。


熱が、掌に残った。

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