第六十四章 納得
イワタから電話が来たのは、昼過ぎだった。
「モリタが、あのインテグラと走りました」
シノザキはデスクの書類から目を上げなかった。
「いつだ」
「三日前の夜です。C1の内回り。一対一で」
「結果は」
「モリタが負けました。ブレーキを、あと二メートル遅らせた差だそうです」
ペンが止まった。
「誰から聞いた」
「ヤマネという男の連れが、PAで見ていました。モリタが挟まなかった、と」
「挟まなかった」
「はい」
シノザキは、窓の外を見た。ビルの向こうに、首都高の高架が灰色に伸びていた。
「わかった」
電話を切った。
夜、倉庫の駐車場に入ると、ランエボが一台だけ停まっていた。
モリタは、ボンネットに腰を預けて缶を握っていた。他の車はいなかった。蛍光灯が、ジジ、と鳴っている。
シノザキはR35を、五メートル離して停めた。降りた。
モリタは顔を上げた。立たなかった。
「聞いたんですね」
「聞いた」
「止めに来たんですか」
「止めない」
モリタの手が、缶の上で止まった。
「走って、どうだった」
「負けました」
「それは聞いた」シノザキは短く言った。「どうだった、と聞いている」
モリタは缶を見た。
「……納得しました」
「そうか」
「怒らないんですか」
「怒る理由がない」シノザキはランエボのフェンダーを見た。傷はなかった。「お前は、挟まずに負けた。それはクロスのやり方ではない。ただ」
「ただ」
「走りとしては、正しい」
モリタは何も言えなかった。
蛍光灯の音だけが続いた。
「ササキのZは」
「修理に出しました。本人は、しばらく乗らないと」
「そうか」
「他の連中も、動揺してます」モリタは言った。「あの夜から、誰もC1に入りません」
「入らなくていい」
「クロスは、どうなるんですか」
シノザキは、すぐには答えなかった。
R35のボンネットに、蛍光灯が白く映っていた。
「解散はしない」やがて言った。「ただ、挟むやり方は、今夜で終わりだ」
「いいんですか」
「お前が先にやめた」
モリタは目を見開いた。
「オレは、勝つために使っていた」シノザキは続けた。「確実に勝てるから、使っていた。だが、あのセダンの前では、確実なものは何もなかった」
「あれを、シノザキさんは」
「追いたいか、と聞いたな。三日前、お前が涼に言ったことだ」
「どうして、それを」
「イワタが聞いていた」
モリタは息を吐いた。笑いに近い音だった。
「情報が洩れるのは、クロスもROVERSも同じですね」
「同じだ」
少し、間があった。
「モリタ」
「はい」
「あのセダンを追うなら、一人では追うな」
モリタが顔を上げた。
「あれは、一人で追うものではない。そういう話を、昔、聞いた」
「誰からですか」
シノザキは答えなかった。
モリタが帰ったあと、シノザキは倉庫の駐車場に一人で残った。
R35のドアにもたれて、前を見ていた。
高架の向こうで、遠くの光が流れている。エンジンの音は聞こえなかった。
胸ポケットから、煙草の箱を出した。
一本抜いた。咥えた。
ライターを近づける。
火がついた。
先が赤く灯った。
シノザキは、それをしばらく見ていた。三十分、C1の路肩で消えなかった手の震えが、今夜は来なかった。
煙を吸った。吐いた。
煙は、蛍光灯の光の中で、白く細く伸びていった。
吸い終わるまで、そこにいた。




