第六十二章 モリタ
大黒PAの自販機の前で、涼は缶を握っていた。
ランエボが入ってきたのは、午前一時を回った頃だった。黒いボディが、いつもの枠から三つ離れた場所に停まった。後ろに続く車はない。R33もZもいなかった。
モリタが降りてきた。
涼は缶を置いた。
「一人ですか」
「見ればわかるだろう」
PAのあちこちで、視線が動いた。クロスの人間が単独で来るのは、半年で初めてだった。
モリタは涼の三歩手前で止まった。両手はポケットに入れていた。
「何の用ですか」
「走れ」
「挟むんですか」
「挟まない」モリタは短く言った。「一対一だ。C1の内回り、一周。先に出口を抜けた方が勝ち」
「理由は」
「あんたを潰したいからだ」
涼は黙った。
「ただし、挟んで潰すのは、もうやめた」モリタは続けた。「あの夜、ササキのZが壁に擦った。オレは追えなかった。それで気づいた。挟んで勝っても、何も残らない」
声は低かった。目は涼から外れなかった。
「走って負けるなら、納得できる」
涼は自販機の灯りを見た。ヤマネのRX-7は、今夜はいなかった。
「わかりました」
「ルールは、ない」
「ないんですね」
「ない」
C1の内回りの入口で、二台が並んだ。
照明の橙が、二台のボンネットを同じ色に染めた。ランエボが右、インテグラが左。
モリタが、パッシングを一度光らせた。
二速。三速。
ランエボが先に出た。AWDの立ち上がりが、路面を蹴る音になって壁に返ってきた。涼は半車身遅れた。
「直線は向こう」
最初の左。
ランエボのブレーキランプが点いた。涼は右足を乗せた。切る。戻す。踏む。ステアリングが中央を通る前に、右足が動いていた。
ブースト1.5。
背中に圧が来た。ノーズが出口を向いたまま、インテグラが前へ詰めた。
ランエボのテールが、すぐ目の前にあった。
狭い道だった。壁が近い。照明が左右から流れてくる。モリタの走りは、速かった。ラインに迷いがない。ブレーキングが深い。立ち上がりでAWDが遠慮なく前へ出る。
涼は、後ろから見ていた。
モリタの走りは、組織の中にいる人間の走り方ではなかった。一人で磨いた走り方だった。
「速い」
声が出た。
三つ目のカーブで、並んだ。
ランエボの左側に、インテグラが入った。ドアミラーの間隔が、手のひら一枚分だった。
モリタが、一瞬だけこちらを見た。
寄せてくるかと思った。
寄せなかった。
並んだまま、カーブを抜けた。
涼は、息を吐いた。
「寄せないんですね」
声は届かない。それでも口が動いた。
次の右で、ランエボが前に出た。出口の加速で、半車身。次の左で、涼が詰めた。次の右で、また前に出られた。
抜きつ抜かれつだった。
照明が等間隔に流れていく。橙の光が、二台のボディの上を滑った。
二周目の半ばで、トンネルが来た。
長い左のカーブが、トンネルの中まで続いている。壁が近い。音が反響する。
涼は一瞬、耳を澄ませた。
何も聞こえなかった。
エンジンの音だけだった。ターボの唸りと、ランエボの排気音。それだけが壁に跳ねて、混ざった。
涼は、もう一度前を見た。
ランエボのテールランプが、出口に向かっていた。
「ここだ」
涼はブレーキを遅らせた。
看板を過ぎて、五十メートル。まだ踏む。
ランエボのブレーキランプが点いた。
三十メートル。
ブレーキ。ABSが足の裏を叩く。切る。戻す。踏む。
トンネルの出口で、インテグラが前にいた。
半車身。
モリタの顔は見えなかった。バックミラーの中で、ランエボのヘッドライトが、じりじりと近づいてくる。
「来る」
直線は、ランエボのものだった。AWDの加速が、背後から迫ってくる。
涼は踏んだ。
並ばれた。
横に、黒いボディがいた。
ほんの数秒だった。
出口のゲートが、前方に見えてきた。
最後の右。
ランエボのブレーキが、先に点いた。
涼は、まだ踏んでいた。
一メートル。二メートル。
ブレーキ。
出口ランプに、インテグラが先に入った。
PAの手前の路肩に、二台が停まった。
エンジンを切った。ターボの余熱が、静かに鳴った。
モリタが降りてきた。ランエボのボンネットに両手をついて、肩で息をしていた。
涼も降りた。
「負けた」
モリタが言った。
「ブレーキです。あと二メートル、オレが先に踏んでました」
「踏まなかったな」
「踏めなかったです」
「違う」モリタは顔を上げた。「怖くなかったのか」
涼は答えなかった。
「オレは怖かった」モリタは続けた。「あんたが前に出た瞬間、後ろから何か来る気がした。蒼いのが」
「来ませんでしたね」
「ああ」
モリタはボンネットから手を離した。ポケットから煙草を出した。火をつけようとして、ライターが一度、空を切った。
もう一度つけた。
煙が、橙の光の中に伸びた。
「あんたに、聞きたいことがある」
「はい」
「あのセダンは、あんたの何だ」
涼は、一瞬だけ視線を落とした。
「何でもないです」
「何でもない奴の後ろに、あれが出るか」
「出たのは、オレの後ろじゃないです」
「同じことだ」モリタは煙を吐いた。「あんたが走る夜に、あれが出る。偶然が三回続けば、偶然じゃない」
「確かめたんですか」
「ROVERSの映像を、見た」
涼は顔を上げた。
「ナカジマさんが、ウチダ経由でクロスに流した。オレが頼んだ」
「頼んだ」
「情報が要った」モリタは短く言った。「あれが何なのか知らないと、動けない」
「教えてもらえたんですか」
「いや」
モリタは煙草を地面に落とした。靴で踏んだ。
「でも、あれがあんたを狙ってるんじゃないことはわかった。あれは、誰かを助けてもいないし、潰してもいない。ただ通ってる」
「通ってる」
「あんたの隣を。クロスの隣を。ROVERSの隣を」
涼は黙っていた。
「理由はわからない」モリタは言った。「でも、あれを追いたいと思った」
「追いたい」
「ああ。あんたを潰すより、そっちの方が先だ」
モリタはランエボのドアを開けた。
「また走るか」
涼は一瞬、言葉に詰まった。
「走ります」
「次は、オレが勝つ」
「はい」
ランエボのエンジンがかかった。黒いボディが、路肩から静かに出ていった。
涼は、そのテールランプが遠ざかるのを見ていた。
足元に、モリタの吸い殻が一つ落ちていた。




