第六十一章 湾岸ランプ
深夜二時。湾岸線のランプ脇に、車が一台停まっていた。
黒いFitだった。
涼はインテグラを、その後ろに寄せた。エンジンを切る。
ターボの余熱が、ボンネットの下でカチカチと鳴った。
イイダはボンネットに背中を預けていた。足元に缶が一本。口は開いていない。
「来ると思ってた」
「ここで待ってるんですか」
「待ってない」イイダは前を見たまま言った。「いるだけだ」
涼は隣に立った。
ランプの向こうに、湾岸線の直線が伸びていた。照明が遠くまで等間隔に並んで、先で一つの点になっている。車の影はなかった。
「C1に出ました」
「聞いた」
「見ました。一瞬だけ」
「どうだった」
「足が動きませんでした」
イイダは缶を拾って、蓋を開けた。一口飲んで、足元に戻した。
「それでいい」
「よくないです」
「初めて見て追う奴は」
風が通り過ぎた。壁に当たって、低く鳴った。
三時が近づいた。トラックが二台、続けて抜けた。コンビニの袋が、路肩を転がっていった。
誰も喋らなかった。
三時十分。
涼の耳が、先に捉えた。
エンジンの音ではなかった。薄い、空気が裂けるような音だった。壁に当たって、遅れて返ってくる。
イイダの背中が、わずかに動いた。
「乗れ」
「はい」
涼はインテグラに飛び込んだ。キーを回す。ターボが息を吸う。
イイダのFitが、先に動いていた。ランプを滑り降りて、本線の左に入る。涼は後ろについた。
本線に出た。
直線の先で、光が二つ生まれた。
遠い。遠いのに、見る間に大きくなる。
「来る」
声が出た。口の中だけだった。
三速、四速。ブーストが立ち上がる。背中に圧が来る。メーターの針が、二百を越えた。
光は、まだ後ろにあった。
ミラーの中で、膨らんでいく。ヘッドライトの間隔が見えた。ボンネットの低さが見えた。
セダンだった。
水平対向の唸りが、ようやく車内に届いた。
「踏め」
右足を床へ。ブースト1.5。K20Aが七千五百で鳴いた。
二百三十。二百四十。
光が、横にいた。
蒼いボディが、涼の左側を通過していく。
窓の外を、一定の速度で流れていく。流れていく、という言い方では足りなかった。こちらが止まっているように、あちらが動いていた。
涼はアクセルを抜かなかった。
足が、動かなかったのではなかった。踏んでいた。床まで踏んでいた。
それでも、蒼いボディは前へ出た。
リアウィンドウが見えた。
低いウイングが、夜の空気を押さえつけていた。ボディが路面に張りついている。車体の下から、風が引き込まれていくのがわかった。
リアウィンドウに、何か貼ってあるかもしれなかった。
見えなかった。
距離が開いた。一台分。五台分。テールランプが、小さくなる。
イイダのFitが、前へ出た。
涼のインテグラを抜いて、蒼いボディの後ろへ詰めていく。涼の目の前で、黒いボディが加速した。静かな、しかし涼の全開を超える加速だった。
蒼い影に、近づいていく。
「行け」
誰にともなく言った。
Fitのテールランプが、蒼いボディの後ろに迫った。
縮まっている。
十台分。八台分。
そこで、蒼いボディが動いた。
ステアリングを切ったようには見えなかった。ただ、車線が変わった。その動きだけで、距離が一気に広がった。
Fitが、アクセルを抜いた。
涼もアクセルを抜いた。
直線の先で、光が一つの点になって、夜に溶けた。
ランプの空き地に戻った。
二台のエンジンを切ると、湾岸の風だけが残った。
イイダは、車から降りなかった。ステアリングに両手を置いたまま、前を見ていた。
涼は窓を叩いた。
窓が少し下りた。
「どのくらいでしたか」
「何がだ」
「速度です」
「三百五十」
「メーターですか」
「見てない」イイダは言った。「音で数えた」
涼は黙った。
「十年前は、もっと遠かった」
「今夜は、近かったんですか」
「近かった」イイダはステアリングから手を離した。掌が、かすかに白かった。「あと、ほんの少し」
窓が閉まった。
イイダの肩が、一度だけ、大きく動いた。それきりだった。
涼は車を離れた。
足元に、イイダの缶が置いてあった。口が開いたままだった。涼は拾わなかった。
自分のインテグラに戻って、ボンネットに手を置いた。
熱かった。
指先が震えていた。震えを、手の中に握り込んだ。
ミラーを見た。
何も映っていなかった。
涼は、湾岸線の先を見た。照明が等間隔に並んで、その先が暗かった。




