第六十章 計算の外
倉庫の駐車場に、Z32が停まっていた。
左のフェンダーが潰れている。壁に擦った跡が、ドアの後ろまで白く伸びていた。ボンネットの上に、ドライバーが座り込んでいた。手が膝の上で震えている。
「ササキ、水」
モリタが缶を投げた。ササキは受け取ったが、開けなかった。
円を描いて停まった七台は、エンジンを切っていた。誰も喋らない。蛍光灯が、ジジ、と鳴った。
R35が入ってきたのは、午前二時を回った頃だった。
シノザキは車から降りて、Zの傷を見た。指でなぞった。塗装の粉が、指先に白く付いた。
「何があった」
モリタが答えた。C1。外回り。四台で挟んだ。インテグラは動けなくなった。そこに、後ろから。
「後ろから」
「蒼いセダンです」
シノザキの指が止まった。
「見たのか」
「見ました。R33とZの間を抜けました」モリタは奥歯を噛んだ。「壁との隙間は、車一台分もなかった」
「ササキが避けた」
「避けたんじゃありません。反射で、ハンドルが」
ササキが顔を上げた。唇の色がなかった。
「あれ、車じゃない」
誰も答えなかった。
シノザキはハンカチを出して、指を拭いた。丁寧に、一本ずつ拭いた。
「追ったか」
「追えません」
「追わなかった、と聞いている」
モリタは目を逸らした。
「ブレーキを踏んでました。無意識で」
「それでいい」
「よくありません」モリタが声を上げた。「あれが出たのは、あのインテグラのせいです。あいつが来てから、C1にまで」
「根拠は」
「ありません。でも」
「ない」
シノザキは短く言った。声は静かだった。
「あれはインテグラではない。それは見ればわかる」
「庇うんですか」
「事実を言っている」
モリタの拳が、ランエボのボンネットに落ちた。鈍い音がした。
「あなたはあの夜から変わった。C1で見てから、ずっと」
円の中の七台が、息を止めていた。
シノザキは、モリタの拳を見た。それから顔を見た。目は変わらなかった。静かなままだった。
「モリタ」
「はい」
「今夜は解散だ」
「まだ話が」
「解散だ」
R35のドアが閉まった。エンジンがかかった。排気音は低く整っていて、倉庫の壁に何も残さなかった。
C1の外回りに、シノザキは一人で入った。
照明の橙が、フロントガラスを等間隔に流れていく。VR38の音は、車内にほとんど届かない。
三つ目のカーブを過ぎたところで、速度を落とした。
路肩に寄せた。ハザードを点けた。エンジンを切った。
静かになった。
シノザキは、ステアリングに手を置いたまま、前を見ていた。
後ろから来る光はなかった。
十分、そうしていた。二十分、そうしていた。トラックが一台、横を過ぎた。風圧で車体が揺れて、すぐに収まった。
速さは計算だと思っていた。
今もそう思っている。計算できないものは、速さではない。そう思ってきた。そう言い切ってきた。
だから、あれは何なのか。
胸ポケットから煙草を出した。咥えた。ライターの火を近づけた。
火は、煙草の先に届かなかった。
手が、止まっていた。
三十分が過ぎた。
何も来なかった。
シノザキは、煙草を口から外して、箱に戻した。
エンジンをかけた。R35の低い音が、狭い道に響いた。
ウインカーを出して、本線に戻った。
ミラーを見た。
何もなかった。
百メートル走って、もう一度見た。
何もなかった。
次の出口の手前で、三度目を見た。橙の光が、後ろへ流れていくだけだった。
シノザキは、アクセルを踏まなかった。




