第五十九章 風切り音
ミウラは、ブースト計の針を指で弾いた。
「1.3が頭打ちだ。上げるなら、タービンから替える」
「大きくするんですか」
「一回りだけだ。大きくすると、低いところが死ぬ。K20Aの良さが消える」ミウラは工具棚からカタログを一冊抜いた。「燃料も増やす。インジェクターとポンプだ。ECUは組み直す」
「いつまでに」
「五日」
「走れない夜は」
「R2がある」
涼は笑った。笑ってから、ミウラが笑っていないのに気づいた。
「どうしました」
「なんでもない」ミウラはカタログを閉じた。「ただ、C1は避けろ。この五日は」
「なぜですか」
ミウラは答えなかった。
R2で走る気にはなれなかった。
三日目に、ヤマネのRX-7の助手席に乗った。内回りに入って、一周した。ヤマネは何も話さなかった。壁が流れて、橙の照明が等間隔に後ろへ消えた。
「C1は、今夜は静かだナ」
「静かですか」
「静かすぎるヨ」
ヤマネはアクセルを緩めなかった。
五日目の夜、インテグラが戻った。
エンジンをかけると、音が変わっていた。低いところの粘りはそのままで、その上に、乾いた回転音が乗っていた。
ブースト計の針は、1.5まで上がった。
「1.5だ。それ以上は触るな」
「わかりました」
ミウラはそれだけ言って、シャッターを閉めた。
C1に入ったのは、日付が変わる頃だった。
ミウラに言われたことは覚えていた。それでも入った。新しい足と新しい心臓を、この狭い道で試したかった。
外回り。照明の橙が、フロントガラスを流れていく。
ブーストが立ち上がる。背中に圧が来る。
「いい」
声が出た。
三つ目のカーブを抜けたところで、バックミラーに光が二つ現れた。
白いR33だった。
見覚えがあった。モリタの隣にいた車だ。
涼はペースを上げた。R33も上げた。距離が変わらない。
左の車線に、もう一台が出てきた。黒いZ32。ヘッドライトが、涼の左のドアを舐めた。
前方に、ランエボが入った。
黒いボディ。モリタだった。
ブレーキランプが点いた。
「来たか」
涼はアクセルを抜いた。ランエボも抜いた。涼は右を見た。壁だった。
四台。前、後ろ、左、壁。
前回と同じ形だった。違うのは、シノザキがいないことだった。パッシングも来ない。
ランエボが、さらに速度を落とした。
八十。七十。
R33が詰めてくる。Zが寄ってくる。ドアミラーの間隔が、手のひら一枚分になった。
涼はランエボの後ろを見た。隙間がない。前回の右コーナーは、まだ先だった。
「ここじゃ抜けない」
奥歯を噛んだ。
ランエボが、六十キロまで落ちた。
その時だった。
音が聞こえた。
エンジンの音ではなかった。もっと薄い音だった。空気が裂ける音が、壁に当たって返ってきた。
涼はミラーを見た。
R33の向こうに、光が二つあった。
遠かった。遠いのに、見る間に大きくなった。
R33の運転手が、ミラーを見たのがわかった。ブレーキランプが一瞬だけ点いて、消えた。
次の瞬間、光はR33の横にいた。
壁とR33の間。幅は、車一台分もない。
そこを、通った。
R33のボディが、風圧で揺れた。窓ガラスが鳴った。
青い影が、視界の左端を抜けていった。
Zのドライバーが、ハンドルを切った。
反射だった。左の車が、壁に向かって流れた。ボディが擦れる音が、橙の光の中に火花を散らした。
青い影は、その空いた隙間を抜けた。
涼のインテグラの、すぐ左。
窓の外を、蒼いボディが通過した。
音が遅れて来た。
風切り音。それから、水平対向の低い唸り。
涼は、前を見た。
ランエボのテールランプが、すぐそこにあった。その横を、蒼いボディが抜けていく。
モリタが、ブレーキを踏んだ。
蒼い影は、カーブの向こうへ消えた。
涼の右足は、アクセルから離れていた。
ターボの音が、静かに落ちていく。ブースト計の針が、ゆっくりゼロへ戻った。
「……」
追えなかった。
追わなかったのでも、なかった。足が動かなかった。
アクセルペダルの上に、足の裏が浮いたまま、そこにあった。
後ろで、R33が減速していた。Zが路肩に寄った。ランエボのブレーキランプが、赤く点いたまま、動かなかった。
誰も、何も言わなかった。
涼は左の窓を見た。
蒼いボディが通った場所に、風の跡が残っているような気がした。気がしただけだった。
指が、ステアリングの上で震えていた。
大黒PAに戻ると、スバルが三台、端に並んでいた。
ヨシカワが、涼のインテグラを見て、言った。
「出たか」
「音だけ聞きました」
「音が先だヨ」
「見ました。一瞬」
「何色だった」
「蒼でした」
ヨシカワは何も言わなかった。ナカノが、腕を組んだまま、遠くを見た。フルカワが、小さく息を吐いた。
「C1か」
「外回りです」
「クロスは」
「四台に挟まれてました」
ヨシカワは顔を上げた。
「助けられたのか」
「わかりません」
涼は缶コーヒーを買った。釣り銭の音が、小さく響いた。
「足が、動きませんでした」
「そうか」
「カガワさんが言ってました。動けなくなる、と」
ヨシカワの目が、わずかに動いた。
「カガワが」
「はい」
「そうか」
ヨシカワはそれだけ言った。
涼は缶を開けた。口をつけなかった。
インテグラのボンネットに、橙の照明が映っていた。ミッドナイトブルーのボディが、光の中で蒼く見えた。
涼は、その蒼を見ていた。
さっき窓の外を通ったものとは、色が違った。




