第五十七章 名前の重さ
S14の男は、二つ目のコーナーで諦めた。
ブレーキランプが早く点いた。涼は何も仕掛けなかった。ただ、一定の距離で後ろについた。辰巳まで離れず、抜かず、並ばなかった。
PAで、男は缶コーヒーを買ってきた。
「なんで抜かなかった」
「抜く必要がなかった」
「それ、腹立つな」男は笑った。「でも、わかった」
次の夜はFC3Sだった。
ロータリーの甲高い音が、壁に反射して耳に刺さった。直線は速かった。コーナーで詰めた。出口で並んだ。ベイブリッジの手前で、FCのリアが一度だけ流れた。男はアクセルを抜き、涼は前に出た。
その次はZ32。ツインターボの加速が、背中を押す前に目の前から消えた。涼は直線を捨てた。コーナーだけを見た。三つ目の右で、Zのノーズが外へ逃げた。
ランエボは、二度走った。
一度目は負けた。立ち上がりの加速で、AWDに置いていかれた。二度目は、舵を戻してから踏む順番だけを守った。出口でランエボが一瞬、前輪を空転させた。それで足りた。
一週間で、七台走った。
六勝一敗だった。
大黒PAの自販機の前で、涼は缶を握っていた。
指が痛い。ステアリングの形に、まだ固まっていた。
「顔が変わったナ」
ヤマネが隣に来た。煙草に火をつけた。
「疲れてます」
「それもあるが」煙を吐いた。「名前を背負った顔だヨ」
「背負ってるつもりは」
「つもりは要らない。周りが勝手に乗せる」ヤマネは自販機の灯りを見た。「悪魔を沈めた男、という名前だ。重いぞ、あれは」
「違うんです。あの人は沈んでない」
「知ってるヨ。それでも名前は動かない」
涼は缶を開けた。プルタブの音が、小さく響いた。
PAの入口に、黒い車が入ってきたのは、そのときだった。
涼は顔を上げた。
Fitだった。
静かに入ってきて、いつもの枠に停まった。空いていた四角い場所に、黒いボディが収まった。エンジンが切れた。
周りの空気が、止まった。
誰かが小さく息を呑んだ。S14の男が、手の缶を落としかけた。
イイダは降りてきた。涼の方を見なかった。自販機に歩いてきて、小銭を入れた。缶コーヒーが落ちる音がした。
拾い上げて、蓋を開けた。
「走ってたヨ」
「聞いてます」
「六勝か」
「一敗です」
「そうか」
イイダは缶を傾けた。PAのあちこちから、視線が集まっていた。誰も近づかなかった。
「噂は消えたな」ヤマネが言った。
「消えた」イイダは短く答えた。「元からなかった話だ」
ミウラのショップは、昼に行った。
インテグラはリフトに上がっていた。ミウラは下から、ブースト計の配線を触っていた。
「七台走ったそうだな」
「聞いたんですか」
「耳に入る」ミウラは這い出てきた。「何が足りなかった」
「ランエボに一度負けました」
「どこで」
「立ち上がりです。トラクションを掛ける前に、向こうが出た」
ミウラは頷いた。ウエスで手を拭きながら、インテグラを見た。
「ブースト1.3が、この車の限界だ」
「上げられませんか」
「上げられる。ただ、その前にボディが先に鳴く」ミウラは補強したロールケージのパイプを叩いた。「剛性を入れた分、K20Aが出す力を受け止めてる。これ以上は、車が別物になる」
「別物」
「FFのままじゃ、いずれ頭打ちだ」
涼は黙っていた。
「その先の話は、まだ早い」ミウラは続けた。「今は、お前が車に追いつく番だ」
「追いついてないですか」
「七台走って、一度負けた。それが答えだ」
ミウラは珈琲を二つ用意した。
夕方、スマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
出ると、低い声がした。
「ROVERSのカガワだ」
涼は少し立ち止まった。
「どこで番号を」
「ヨシカワから聞いた」声は落ち着いていた。「木曜の夜、ゲートに来い。走るためじゃない」
「何のためですか」
「見せたいものがある」
「見せたい」
「来ればわかる」
短い沈黙があった。通話の向こうで、エンジンの低い音が小さく響いていた。
「行きます」
「それでいい」
電話が切れた。
涼はスマートフォンを握ったまま、ショップの窓の外を見た。夕陽が、首都高の高架を橙色に染めていた。




