第五十六章 ER34
男はハタノと名乗った。
苗字だけだった。涼も名前だけ返した。この場所では、それで足りた。
ER34はスカイラインGT。GT-Rではなく、RB25DETのFRだった。ボディはダークブルー。涼のインテグラと並べると、色がほとんど同じに見えた。
「青同士か」
「蒼と紺だ」ハタノは言った。「夜に見れば、わからないだろうが」
「ルールは」
「ない。大黒から出て、辰巳まで。先に着いた方が勝ちだ」
「わかりました」
ヤマネが、PAの端で煙草の火を動かした。止めはしなかった。
ゲートの手前で、二台が並んだ。
ハタノが右手を上げた。
下ろした。
二速。三速。
ER34が先に出た。FRの後輪が路面を蹴る音が、壁に跳ね返ってきた。涼は半車身遅れて追った。
湾岸線に入る。
四速。ブーストが立ち上がり、背中に圧が来た。ER34のテールランプが、一台分前にあった。
「直線は向こうだ」
声が出た。口の中だけだった。
東扇島の緩い左。
百メートルの看板。ER34はまだ踏んでいる。七十。涼も踏んだ。
ブレーキランプが先に点いた。
涼は、ブレーキを乗せた。
切る。戻す。踏む。
ステアリングが中央を通る前に、右足が動いていた。デフを組み直してから、舵の残りを腕で押さえる必要がなくなっていた。フロントが逃げない。ノーズが出口へ向いたまま、インテグラが前へ出た。
ER34のテールが、すぐ目の前にあった。
半車身まで詰まった。
「近い」
ハタノの走りは、荒くなかった。ブレーキングが丁寧だった。ラインが綺麗だった。FRのパワーを、コーナーの出口まで無理なく流している。
涼は、それを後ろから見ていた。
綺麗な走りだった。そして、読めた。
直線に出る。ER34が離す。一台分、二台分。ターボが唸っているのが、窓越しに聞こえた。
「開く。いい。ここは開く場所だ」
ベイブリッジが見えてきた。
六速。橋の入口で風が車体を叩く。
継ぎ目の音が続く。タタン、タタン。
インテグラは跳ねなかった。
ER34が、一瞬だけ揺れた。FRのリアが、横風を拾った。ハタノの肩が、わずかに動くのが見えた。
涼は、アクセルを緩めなかった。
橋を降りる。右の高速コーナーが来る。
ER34が、深く入った。
涼は、浅く入った。
ここはイイダのラインだった。外へ膨らむ。壁が遠くなる。視界が開けて、出口までの距離が長く見える。
ER34は内側にいる。深く入った分だけ、立ち上がりでリアが重くなった。FRは、出口で踏みすぎるとリアが出る。
ハタノが、アクセルを一瞬だけ抜いた。
涼は踏んだ。
並んだ。
左の窓の外に、ダークブルーのボディがいた。
次のコーナーまで、並んだまま走った。
辰巳の出口が、前方に見えてきた。
最後の下りの右だった。
ER34のブレーキランプが先に点いた。涼はまだ踏んだ。三十メートル。
ブレーキ。
ABSが足の裏を叩いた。ノーズが沈む。切る。戻す。踏む。
出口のランプに、インテグラが先に入った。
バックミラーに、ER34のヘッドライトが映っていた。半車身後ろだった。
涼は、ランプの終わりまで踏み続けた。
辰巳PAに、二台が並んで停まった。
ハタノが降りてきた。ボンネットに手を置いて、自分の車を見ていた。
「負けた」
「橋で、揺れましたね」
「揺れたヨ」ハタノは笑った。「オレのFRは、風が嫌いなんだ」
「それでも速かったです」
「直線ならな」
ハタノは、涼のインテグラを一周して見た。バンパーの擦り跡を指でなぞった。
「Fitは、これより速いのか」
「速いです」
「どのくらい」
「本気を出されたら、見えなくなります」
ハタノは少し黙った。それから、ポケットから煙草を出した。涼に一本差し出した。
涼は受け取った。吸わなかった。指に挟んだまま、持っていた。
「噂は、当てにならないな」
「当てにならないです」
「でも、走りは嘘をつかない」
「はい」
ハタノは煙草に火をつけた。
「蒼いセダンを見た」
涼の指が、止まった。
「いつですか」
「三日前の夜。C1の外回り」ハタノは煙を吐いた。「バックミラーに映って、気づいたら前にいた。そのまま消えた」
「インプレッサでしたか」
「わからない。ただ」ハタノは前を見たまま言った。「音がしなかった」
涼は煙草を持ったまま、辰巳の夜景を見ていた。
「お前のインテグラと、色が似てた」
「ミッドナイトブルーです」
「違う」ハタノは首を振った。「あれは、もっと蒼かった」
風が通り過ぎた。
涼は、手の中の煙草を見た。火がついていなかった。
インテグラに戻った。
エンジンをかけた。ターボが、息を吸った。
大黒へ戻る道の途中で、C1の分岐を通り過ぎた。入口の標識が、青白く光っていた。
涼は、そのまま湾岸を走り続けた。




