第五十五章 一年に一度
ヨシカワの家は、横浜の外れにあった。
古い一軒家のガレージに、インプレッサのハッチバックが入っている。ボンネットは開いたままだった。ヨシカワは作業着の袖をまくって、エンジンルームを覗いていた。
「連絡もなしに来るとはな」
「聞きたいことがあります」
「イイダのことか」
涼は頷いた。
ヨシカワは工具を置いて、ウエスで手を拭いた。ガレージの奥から折りたたみ椅子を二つ出した。
「座れ」
腰を下ろすと、金属が軋んだ。
「一週間、出てません」
「知ってるヨ」ヨシカワは椅子の背に肘を乗せた。「毎年、この時期になると消える」
「毎年」
「オレたちが気づいたのは、三年前だ。WZRで集まるようになってからだヨ。それまでは誰も、あの人を見ていなかった」
「消える理由は」
ヨシカワは壁のカレンダーを見た。赤い印がひとつ付いていた。
「残光が最後に走った夜が、この週だ」
涼は何も言わなかった。
「WZEBRAの人間が、あの車を最後に見た夜だヨ。それから一年と少しで、ショップが畳まれた。デモカーの行方は、それきりだ」
「イイダさんは、その夜に」
「いた」ヨシカワは短く言った。「ナカノが見ていた。あの夜、黒いコンパクトが、残光の後ろにいた。あと少しの距離だった、とナカノは言ってる」
ガレージの外で、風が板金の庇を鳴らした。
「それ以来、毎年か」
「たぶんナ。誰も確かめてない」ヨシカワは腕を組んだ。「どこにいるかも知らない」
「探します」
「やめておけ、とは言わないヨ」ヨシカワは笑わなかった。「ただ、行って何を言う」
「何も」
「なら、いい」
涼は立ち上がった。ガレージの隅に、白いステッカーの貼られたパーツ箱があった。WZEBRAの文字が、色褪せていた。
大黒ふ頭の奥に、旧ランプがある。
新首都高が沖に出てから、閉鎖された区間だった。ゲートの手前に、車が数台入れる広さの空き地が残っている。街灯は点いていない。
涼はインテグラのライトを落として、ゆっくり入った。
黒い車体が見えた。
Fitだった。
エンジンは切れている。ボンネットに、男が背中を預けていた。足元に、缶コーヒーが一本、立てて置いてある。
涼はインテグラを少し離して停めた。
降りた。
足音が、砂利に響いた。
「来たか」
イイダは振り向かなかった。
「探しました」
「探すほどの場所じゃないヨ」
涼は隣に立った。ゲートの向こうに、封鎖された高架が、暗い空に伸びていた。
「ここですか」
「ここだ」
それ以上は言わなかった。涼も聞かなかった。
足元の缶を見た。口が開いていない。
「飲まないんですか」
「供えてる」
「誰に」
イイダは答えなかった。代わりに、ポケットから煙草を出した。火をつけて、一口吸った。煙が、暗がりに細く伸びた。
「缶、置いたのはお前か」
「大黒の、あの場所に」
「見た」
「すみません」
「謝るな」イイダは煙を吐いた。「空いてる枠に缶を置く奴は、初めて見た」
「意味はないです」
「意味がないのが、いい」
風が通り過ぎた。
「噂を聞いてます」涼は言った。「あなたが沈んだと」
「聞いたヨ」
「否定しないんですか」
「好きにさせとけ」イイダは短く言った。「走れなくなったわけじゃない。今週だけだ」
「来週は」
「走る」
煙草の先が、赤く動いた。
「あと少しだったんだ」
涼は何も言わなかった。
「あの夜な」イイダは続けた。「テールランプが、すぐそこにあった。踏めば届く距離だった。それで、踏んだ」
「届きましたか」
「届かなかった」
イイダは煙草を指で潰した。足元の缶の隣に、吸い殻を置いた。
「その先は、ない。次の夜から、あの車はいなかった」
涼はゲートを見た。封鎖された高架の向こうに、湾岸の光が遠く瞬いていた。
「オオタは」
涼は言いかけて、口を閉じた。
イイダが、初めて涼の方を見た。
「聞いたヨ」
「誰から」
「ヤマネだ」イイダは短く言った。「PAで、一度だけ話した」
涼は目を逸らした。
「一番いい夜に、逝ったと聞いた」
「ノートに、書いてありました」
「そうか」
イイダは缶を拾い上げなかった。
「お前は、生きてる」
涼は何も言えなかった。
「それだけで、足りる夜がある」
イイダはFitのドアを開けた。
「帰れ。来週、走る」
「一緒に」
「走るヨ」
ドアが閉まった。エンジンはかからなかった。窓の向こうで、男はシートに深く座って、ゲートの方を見ていた。
涼はインテグラに戻った。
ライトをつけずにバックして、空き地を出た。
ミラーの中で、黒い車体が、暗がりに溶けていた。足元の缶だけが、微かな光を返していた。




