第五十四章 空席
黒いFitは、一週間出なかった。
大黒PAの端に、涼はインテグラを停めていた。エンジンは切ってある。缶コーヒーを開けて、入口を見ていた。
ヘッドライトが入ってくる。S14だった。次はER34。その次は軽のワゴン。どれも違った。
「今夜も来ないな」
隣でヤマネが言った。煙草の先が赤く動いた。
「連絡先、聞いておけばよかった」
「聞いても出ないヨ、あの男は」
「そうですか」
「携帯を持ってるかも怪しい」
涼は缶を傾けた。ぬるくなっていた。
PAのあちこちで、人が小さく固まって話していた。目が合うと、視線が逸れた。逸れてから、また戻ってくる。
悪魔が沈んだ、という言葉が、風に乗って聞こえた。
「あれは」
「聞こえてるヨ」ヤマネは煙を吐いた。「お前が沈めた、という話になってる。Fitが走れなくなって、首都高から消えた、とな」
「走ってないのは、俺のせいじゃない」
「誰も本当のことは知らない。だから話は、一番面白い形に落ち着く」
涼は缶を握りつぶした。金属の軋む音が、思ったより大きかった。
モリタは、ランエボのボンネットに両手をついていた。
クロスの溜まり場は、湾岸沿いの倉庫の駐車場だった。七台が円を描くように停まっている。中央にR35があった。
「Fitが消えた今が好機です」
「何の好機だ」
シノザキは運転席のドアに腕を預けていた。声は静かだった。
「悪魔を沈めた男は、今この道で一番名前が大きい。あのインテグラを潰せば、クロスの名前がそのまま乗ります」
「手を出さないと言った」
「他の連中は動いてます。例の日産チームも、よくわからない連中も。このままでは、先にやられます」
「先にやられる、というのは」
「他の誰かが、インテグラを獲る」
シノザキは何も言わなかった。
R35のボディに、倉庫の蛍光灯が白く映っていた。長い間、そうしていた。
「モリタ」
「はい」
「Fitは本当に、沈んだと思うか」
モリタは答えられなかった。
「一週間、誰も見ていない。それは事実だ」シノザキは続けた。「だが、あの車が走れなくなった話は、誰も聞いていない。壊れた、売った、事故に遭った。どれも出てこない」
「噂が先に」
「噂が先に出た。それが気に入らない」コーヒーを飲み切る。
「第一、インテグラは易々と獲られない。そうだろ」
シノザキはドアを開けて、運転席に座った。
「動くな。今は」
エンジンがかかった。R35が、円の外へ出ていった。
モリタはランエボのボンネットに手をついたまま、動けなかった。他の六台が、無言でこちらを見ていた。
ROVERSの集まりは、毎週木曜の夜に開かれていた。
場所は東京エクスプレスウェイのゲート前簡易ピット。R34、Z、シーマ、ステージア。四台が並んでいる。一番奥に、R50がいなかった。
「遅いな」
セキグチが腕時計を見た。ウチダが携帯を閉じた。
「出ません。大黒にいるって」
「また」
「また、です」
ナカジマがステージアのピラーに肘をつけた。
「先月から続いてる。木曜に来ない日が、これで三度目だ」
「理由は」
「聞いてない。聞ける雰囲気でもない」
遠くから、低いエンジン音が近づいてきた。
R50が、ゲート前に滑り込んだ。他の四台から少し離れた位置に停まる。降りてくる動きが、いつもより遅かった。
「遅れた」
「カガワさん」ウチダが一歩出た。「大黒に、行ってましたか」
「行ってた」
「また、インテグラを」
「見てた」
誰も何も言わなかった。
カガワは四人を順に見た。それから視線を下げた。口が少し開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
「何かあったんですか」
「ない」
「じゃあ」
「ないんだ」
声が低かった。ウチダが半歩下がった。
セキグチが口を開いた。
「クロスが動きかけてます。モリタが、インテグラを獲りたがってるとの話です」
「そうか」
「ROVERSはどう動きますか」
カガワは答えなかった。
R50の低いボディが、ゲートの照明に濡れていた。長い間、誰も動かなかった。
「インテグラには、手を出すな」
「どっちが」
「両方だ。クロスにも、うちにも」
「理由は」
カガワは顔を上げた。セキグチの目を見た。
「決まったら言う」
それだけ言って、R50に戻った。
エンジンがかかった。低い音が、四台を震わせた。R50は、ゲートを抜けて夜の中に消えた。
ウチダが、遠ざかるテールランプを見ていた。
「カガワさん、変わりましたね」
「ああ」セキグチは短く答えた。
「いつから」
「あのインテグラが、来てからだ」
深夜三時。
涼は大黒PAに、まだいた。
インテグラのボンネットに腰を預けて、湾岸の方を見ていた。ヤマネはもう帰っていた。PAに残っているのは数台だけだった。
遠くから、エンジン音が聞こえた。
反射的に顔を上げた。
黒いコンパクトのシルエットを探した。
違った。
白いワゴンだった。コンビニの袋を提げた男が降りてきて、自販機の前に立った。
涼は視線を戻した。
駐車枠に、黒い車がいない。入口に近い、いつもあの車が停まっていた場所だった。そこだけ、四角く暗かった。
空席だった。
涼はその場所を見ていた。
蒼いな、と誰かに言われた気がした。カガワの声だった。それとも、別の誰かの声だったか。
缶コーヒーを買った。今度は二本。
一本を、空席の前の地面に置いた。
誰が見ても、意味のわからない動作だった。置いてから、自分でも少し可笑しくなった。
インテグラに戻って、エンジンをかけた。




