第五十三章 沈んだ悪魔
大黒PAに入った瞬間、空気が違った。
駐車スペースに車が多い。普段なら端に散らばっている連中が、入口に近い側に固まっていた。涼がインテグラを停めると、視線がこちらに集まった。
エンジンを切って降りた。
話し声が止んだ。
「……なんだ」
「青いインテグラだ」
「あれが」
小さな声だった。聞こえないふりをして、自販機へ向かった。
「悪魔のFitを落としたって本当か」
横から声が来た。知らない顔だった。二十代半ばで、足元にS14のキーを握っていた。
「落としてない」
「でも、並んだんだろ」
「並んだ。直線は置いていかれた」
「それでも先にゴールしたって聞いた」
「向こうは本気じゃなかった」
男は涼の顔を見て、少し笑った。信じていない笑い方だった。
「謙遜するなよ」
涼は缶コーヒーを買った。釣り銭の音が、やけに大きく響いた。
「噂ってのは、本人より足が速いヨ」
ヤマネはRX-7のボンネットに腰を預けて、煙草を吸っていた。涼の話を聞いても、驚いた様子はなかった。
「誰が見てたんですか」
「誰も見てない」
「じゃあ」
「出口で見た奴がいたんだろうヨ。お前が先に入って、Fitが後から入った。それだけで足りる」煙を吐いた。「悪魔が後ろにいた、という事実だけが、一人で歩いていく」
「本気じゃなかったんです」
「知ってるヨ」ヤマネは言った。「でも、それは誰も確かめられない。確かめられないことは、話が大きい方に転がる」
涼は缶を握った。温かさが、もう残っていなかった。
「で、どうなるんですか」
ヤマネは顎で、PAの奥を指した。
並んでいる車があった。
S14。FC3S。ER34。ランエボ。三台目の後ろに、Z32の姿も見える。全部が、エンジンを切って、涼のインテグラの方を向いていた。
「Fitを沈めた奴を沈めれば、間接的にFitを沈めた奴になる」ヤマネは短く言った。「単純な話だヨ」
「全員ですか」
「今夜は、な」
最初に来たのは、クロサワだった。
R34が、列の最後尾に静かに停まった。ガンメタリックのボディが、照明の下で鈍く光っていた。
降りてきて、涼の前に立った。
「噂を聞いた」
「やってません」
「そうか」クロサワは頷いた。「それでも、並んだことは事実だろう」
「並びました」
「ならいい」クロサワは列の方を見た。「あの連中を、オレが先に相手にする。お前は後でいい」
「なぜですか」
「お前の走りが、まだ荒いからだ。FFでGT-Rに勝った男が、有象無象に潰されるのを見たくない」
「潰されませんよ」
「見たくないんだ」クロサワは短く言った。「見てるだけでいい。今夜は」
R34が列に向かって動き出した。
涼は何も言えないまま、そのテールランプを見送った。
カガワが大黒PAに入ってきたのは、深夜の二時を回った頃だった。
涼は気づかなかった。
R50は、PAの一番遠い端に停まっていた。低いボディが、照明の届かない場所に沈んでいた。エンジンは切れている。窓は閉まっている。降りる気配がなかった。
カガワは、ハンドルに手を置いたまま、前を見ていた。
遠くで、インテグラが走り出すのが見えた。クロサワのR34と並んでゲートへ向かう。ミッドナイトブルーのボディが、夜の光の中で蒼く滲んでいた。
蒼く、見えた。
カガワは目を細めた。
「……」
何か言いかけて、やめた。
助手席のスマートフォンが光った。ウチダからの着信だった。出なかった。画面が暗くなった。
もう一度鳴った。
「何だ」
「カガワさん、どこにいますか」ウチダの声だった。「今夜は集まりの日です。みんな待ってます」
「忘れてた」
「忘れてた、って」ウチダは少し黙った。「最近、夜に一人で出る回数が増えてませんか」
「そうか」
「そうかじゃなくて」
「大黒にいる」
「大黒」ウチダの声が、変わった。「あの、例のインテグラが」
「見てる」
電話の向こうで、誰かが何か言った。セキグチの声のようだった。
「用事は何だ」
「用事って、特には」ウチダは言葉を探した。「ただ、カガワさんが、何を見に行ってるのかなって」
カガワは前を見た。
インテグラのテールランプが、ゲートの向こうへ消えていくところだった。
「走りを見てる」
「それだけですか」
「それだけだ」
電話を切った。
シートに背中を預けた。R50のレザーが、微かに軋んだ。
なぜここにいるのか。
そう考えかけて、やめた。考えても答えのない問いだった。それを何度も繰り返してきた。繰り返すたびに、同じ場所に戻ってきた。
キーを回した。
エンジンがかかった。低い音が、PAの端に響いた。
アクセルに足を乗せた。
動かなかった。
ブレーキを踏んだまま、数秒、そのままでいた。
やがて、キーを戻した。
エンジンが止まった。
静かになった。
カガワは、窓の外を見た。ゲートの向こうの暗がりで、遠くのエンジン音が、しばらく続いていた。
涼が大黒に戻ったのは、夜明け前だった。
有象無象は、クロサワがほとんど片づけていた。残りの数台は、涼が走った。R34の後ろから見ていた景色が、走りの中に混じっていた。
車を停めて、降りた。
PAの端に、低い影があった。
R50だった。
カガワは車の横に立っていた。ボンネットに手を置いて、涼の方を見ていた。
「来てたんですか」
「少し前に」
「声をかけてくれれば」
「かけるつもりはなかった」
カガワはそれだけ言った。涼を見る目が、いつもと少し違っていた。測るような目ではなかった。もっと、何かを探している目だった。
「噂を聞いた」
「やってません」
「知ってる」
「なら」
「走りは見た」カガワは続けた。「それだけだ」
R50のドアを開けた。乗り込んで、エンジンをかけた。低い音が、夜明けの空気を震わせた。
窓が少しだけ下りた。
「蒼いな」
「ミッドナイトブルーです」
「夜に見ると、そうなる」
窓が閉まった。
R50が、ゆっくりとPAを出ていった。テールランプが遠くなって、白み始めた空の下に消えた。




