第五十二章 再走(後編)
S字の入口で、Fitが深く入った。
ブレーキランプが点く位置が、前回より十メートル奥だった。あの夜の涼のラインだった。壁の白い線が、黒いボディのすぐ脇を流れていく。
涼は右足をブレーキに乗せた。
踏み込まなかった。
「浅く入る」
一つ目の右を、前回のイイダのラインでなぞった。外側へ膨らむ。壁が遠くなる。視界が開けて、出口までの距離が長く見えた。
Fitが内側を鋭く抜けていく。
テールランプが前へ出た。半車身、一台分。
「いい。ここは譲る」
ステアリングを戻す。中央を通過した瞬間に、右足を床へ。タービンが立ち上がった。舵が戻りきる前から、車はもう前に出ている。
二つ目の左。
Fitは内側にいる。深く入った分だけ、立ち上がりでノーズが外へ流れた。ほんのわずかだった。涼の目にだけ見える流れだった。
浅く入った涼のインテグラは、速度を残したまま内側へ滑り込んだ。
並んだ。
左の窓の外に、黒いボディがいた。
三つ目の右が来る。涼は外側、Fitは内側。ここで内を取られたら、ラインを塞がれる。
ブレーキを、ほんの少しだけ遅らせた。
ノーズが沈む。切る。戻す。踏む。
Fitのテールが、壁に寄った。
出口で、インテグラが前に出た。
半車身だった。バックミラーの中で、黒いFitのヘッドライトが一つ、二つと近づいてくる。
「前だ。前にいる」
声が上ずった。腕に力が入りかけて、息を吐いた。
直線に出た。
Fitが来る。静かに、確実に、距離を食っていく。涼は床まで踏んだ。ブースト計が1.3で止まる。K20Aが七千五百で鳴いている。それ以上は出ない。
半車身が、数センチになった。
数センチが、ゼロになった。
横に並んだ。
「抜かれる。ここは抜かれる場所だ」
わかっていた。直線はFitのものだ。
しかしFitは、前に出なかった。
並んだまま、二台が走った。エンジン音が壁に反射して重なる。ターボの唸りと、Fitの低く静かな音。
大黒の出口ランプが、前方に見えてきた。
最後のコーナーだった。
百メートルの看板。涼は踏んだ。Fitも踏んでいる。
七十メートル。
五十メートル。
隣のFitのブレーキランプが、先に点いた。
涼はまだ踏んだ。
三十メートル。
「行け」
ブレーキ。
ABSが足の裏を叩いた。シートベルトが胸を締める。ノーズが沈み込み、視界が縦に揺れる。
切る。
ステアリングを右へ。フロントが路面を噛んで、内側の縁石が目の前に迫った。
戻す。
踏む。
出口のランプへ、インテグラが先に飛び込んだ。
バックミラーに、黒いFitが映っていた。一台分、後ろだった。
涼は踏み続けた。ランプの終わりまで、アクセルを緩めなかった。
大黒PAの入口で、涼が先に停まった。
エンジンを切った。ターボの余熱が、ボンネットの下でカチカチと鳴った。手のひらを開いた。ステアリングの形のまま固まっていた。
指を、一本ずつ伸ばした。
Fitが隣に入ってきた。静かに停まった。
イイダが降りてきた。缶コーヒーを二本持っていた。
一本を、涼の窓の前に差し出した。
涼は受け取った。熱かった。
「S字」
「はい」
「浅く入ったな」
「入りました」
「オレのラインだ」イイダは缶を開けた。「先週のオレの」
「借りました」
「返しにきたんだろ」
「そのつもりです」
イイダは缶を傾けた。喉が動いた。それから、自分の缶を握りつぶさないまま、静かに降ろした。
「オレも借りた。深く入るのは、お前のやり方だヨ」
「壁に近かったです」
「近かった」イイダは頷いた。「十年ぶりに、壁が見えた」
涼は何も言えなかった。
「直線は、本気じゃなかったですよね」
イイダは答えなかった。否定もしなかった。
PAの照明が、黒いボディを白く照らしていた。遠くで、トラックが一台走り去った。
「次は」イイダは言った。
「走ります」
「ならいい」
Fitのドアが閉まった。エンジンがかかった。静かな音のまま、黒いボディがPAを出ていった。
涼は缶コーヒーを両手で持ったまま、テールランプが消えるのを見ていた。
缶は、まだ温かかった。




