第五十一章 再走(前編)
大黒の本線に出る手前で、Fitが前に入った。
ルールは決めなかった。パッシングもなかった。イイダがウインカーを出さずに合流したのが、合図だった。
二速。五千で三速。
ステアリングが軽い。手の中に、押さえつける重さがなかった。三日前までは、直線でも腕のどこかが余計に働いていた。今はそれがない。
「軽い。……軽いな」
声が出た。口の中だけの声だった。
湾岸線に入った。
四速。回転が七千を越える。K20Aが高く鳴き、ブースト計の針が1.3で止まる。
Fitは一台分前にいた。
前回と同じ位置だ。違うのは、涼が離れていないことだった。直線で開くはずの差が、開かない。
「待て。直線で競るな。次だ」
東扇島の緩い左が見えた。
百メートルの看板。まだ踏む。七十。踏む。
Fitのブレーキランプが点いた。
右足をブレーキへ。乗せる。ノーズが沈み、フロントタイヤが路面を噛む。
「切る」
ステアリングを左へ。ノーズが内へ吸い込まれる。
「戻す」
中央へ返し始める。壁の白い線が、フロントガラスの端を流れていく。
「踏む」
右足が動き始めたとき、ステアリングはもう中央にあった。ターボのラグの間に舵が戻りきっている。タービンが立ち上がった。
背中に圧が来た。
フロントは逃げなかった。インテグラが、出口へ前進した。
Fitのテールランプが、近い。
半車身まで詰まっていた。コーナー出口で、前回は一台分あった差だった。
「詰まった。順番だ。順番が効いてる」
息を吐いた。力が入りかけていた腕を、抜いた。
直線に出た。
Fitが動く。静かに、確実に。涼は床まで踏んだ。差が開く。一台分、また半車身。
「開くのは、いい。ここは開く場所だ」
ミウラの声が浮かびかけた。
消さなかった。今夜は、浮かぶままにした。
次は長い右だった。
ここは入口が下りになっている。荷重が前へ余計に乗る。ブレーキを欲張れば、フロントが先に音を上げる。
涼はブレーキを、前回より半拍早く踏んだ。
Fitとの差が、一瞬だけ広がった。
「いい。ここは譲る」
ステアリングを切る。浅めに入る。戻す。踏む。
出口で、ターボが全開になった。
踏み始めが、前回より早い。浅く入った分だけ、舵が早く中央へ戻ったからだ。インテグラが、前へ弾けた。
Fitの横まで、一気に詰まった。
並んだ。
左の窓の外に、黒いボディがいた。コンパクトな車体。一台分の幅もない距離だった。
ステアリングを握る手が、わずかに震えた。
「並んだ。並んでる」
声が上ずった。
並んだまま、直線へ。二台のエンジン音が壁に反射して重なる。Fitの音は低く、静かだった。ターボの唸りと比べて、まるで別の乗り物の音に聞こえた。
先に動いたのは、Fitだった。
前に出る。静かに。しかし、前回ほど速くなかった。
「……あれ」
加速の立ち上がりが、前回より鈍い。
半車身。一台分。
差は開いたが、前回の開き方ではなかった。
涼は踏み続けた。ブーストは1.3。K20Aは七千五百まで回っている。それ以上は出ない。
前方に、橋が見えてきた。
ベイブリッジ。
長い上り。橋脚が夜空に並んでいる。ここで前回、車体が風に跳ねた。Fitは揺れず、涼のインテグラだけが跳ねた。
「橋だ。ここで差がつく」
六速に入れた。
橋の入口を越えた。
風が車体を叩いた。
タタン、タタン。継ぎ目の音。
涼のインテグラは、跳ねなかった。
足が違う。デフを組み直して、舵を戻すタイミングが変わって、車体の姿勢が落ち着いていた。
前方で、Fitが一瞬だけ揺れた。
ほんのわずかだった。涼の目にだけ見える揺れだった。黒いボディが、橋の上で、風を受けて半歩だけ動いた。
「揺れた」
初めてだった。
イイダのFitが、揺れるのを見た。
橋の頂点を越えた。下りに入る。本牧の手前の右が、遠くに見え始めた。
そのとき、Fitのテールランプが、変わった。
ブレーキランプではなかった。ランプの位置が、車線の内側へ寄った。涼の目の前で、Fitが、前回の涼のラインをなぞるように動いていた。
深く、内へ。壁の近くへ。
涼は、その動きを見ていた。
イイダが、涼の走りを使っている。
「……借りたのか」




