第五十章 舵を戻す
シャッターの隙間から、朝の光が床に線を引いていた。
ミウラはインテグラのフロントバンパーの端を、指でなぞっていた。白い擦り跡が残っている。壁の線が、そのまま車に移っていた。
「近かったな」
「十センチもなかったです」
「数字で言うな」ミウラは指を離した。「走りを話せ」
涼は話した。橋の上で車体が跳ねたこと。S字の一つ目で深く入ったこと。イイダのFitが、舵を戻してから踏んでいたこと。自分は舵が残ったまま踏んでいたこと。
ミウラは途中で口を挟まなかった。珈琲にも手をつけなかった。
「気づいたのは、走ってる最中か」
「はい」
「なら半分は済んでる」
「もう半分は」
「車だ」
ミウラはリフトを上げて、インテグラの下に入った。懐中電灯の光がデフの周りを動く。金属を叩く音が、二度、三度。
「LSDがK20Aのトルクに負けてる。ターボを積む前の設定に、少し手を入れただけだ。フロントが外へ逃げるのを、お前がステアリングで押さえてた」
「腕で抑えてたんですか」
「抑えられるから、気づかなかった」ミウラは這い出てきて、手を拭いた。「組み直せば、舵が残ってても車が内へ引き込む」
「なら、戻してから踏む必要は」
「要る」即答だった。「直すのは車の話だ。順番の話は別だ。イイダは車に頼って速いんじゃない。順番を一つも飛ばさないから速い」
「切る、戻す、踏む」
「だから静かなんだ。無駄な動きがないと、車は音を立てない」
ミウラは工具棚に向かった。
「LSDは三日で組む。その間に、順番を身体に入れておけ」
大井ジャンクションの手前に、長い左がある。
夜中の二時。涼は代車のR2ではなく、まだ走れるインテグラで入った。LSDは古いままだ。それでいい。癖を直すには、癖が出る状態で走る方がいい。
三速。回転を五千に合わせる。
ブレーキ。ノーズが沈む。ステアリングを切る。
「切る」
ターボが息を吸う音がした。
「戻す」
ステアリングを、中央へ返し始める。
「踏む」
右足を床へ。
タービンが立ち上がるのが、半拍遅れた。舵を戻しきるのを待ちすぎた。出口でスピードが乗らない。
次の周回で、大井の手前まで戻ってやり直した。
切る。戻す。踏む。
今度は早すぎた。舵が残ったまま踏んでいた。フロントが外へ膨らんで、ステアリングを押さえ込んだ。いつもの癖だった。
もう一度。
切る。戻す。踏む。
同じ左を、十回走った。二十回走った。
三十回目の手前で、気づいた。
ターボには、ラグがある。踏み込んでからタービンが回り出すまでの、ほんのわずかな空白。この空白の間に、舵を戻せばいい。戻し始めを、踏む前に置く。踏んだ瞬間に、もう戻っている。
「戻す」の最中に、右足が動き始める。順番は守ったまま、境目だけが重なる。
三十一回目の左で、タービンが立ち上がった時、ステアリングはすでに中央にあった。
背中に圧が来た。
フロントは、逃げなかった。
車が前へ出た。
涼はアクセルを抜かないまま、次のコーナーまで走り続けた。
大黒PAに戻ると、ヤマネがいた。
煙草に火をつけたまま、涼のインテグラを見ていた。
「大井の左、走ってたナ」
「見てたんですか」
「音でわかるヨ」ヤマネは煙を吐いた。「同じコーナーを何度も回る奴は、ここでは珍しい」
「順番を、入れてました」
「順番」
「切る、戻す、踏む」
ヤマネは煙草を口から離した。しばらく、涼の顔を見ていた。
「誰から聞いた」
「イイダさんの走りから」
「そうか」
ヤマネは短く言った。それ以上は聞かなかった。煙草を踏み消して、自分のRX-7に戻りかけた。
背中越しに言った。「あの男の走りを、盗もうとするなよ」
「盗むつもりは」
「わかってるヨ」ヤマネは振り返らなかった。「盗むと、自分の走りが消える。お前のインテグラは、お前の走りで速くなった。借りて、返すつもりで使え」
ヤマネのRX-7が、PAを出ていった。
涼はインテグラのボンネットに手を置いた。K20Aの熱が、掌に残った。
預けて三日後の夕方、ミウラから連絡が来た。
「組み上がった」
ショップに着くと、インテグラは作業台の前に出ていた。ボンネットは閉まっている。外見は何も変わっていなかった。
「走ってこい」ミウラは言った。「近場だけだ」
キーを差した。エンジンをかけた。音は同じだった。
ショップの前の道路で、最初の左に入った。
ステアリングを切る。
まだ戻していない。
アクセルを、少しだけ踏んだ。
インテグラのノーズが、内へ引き込まれた。
舵角が残っていても、フロントが外へ逃げない。ステアリングに、押さえ込む手応えがなかった。手が、軽い。
「……ああ」
声が出た。
腕が今まで、何を抑えていたのか。それが、抑えなくなって初めてわかった。
ショップに戻ると、ミウラが珈琲を二つ用意していた。
「どうだ」
「軽いです。手が」
「それでいい」ミウラは珈琲を差し出した。「今まで、お前は二人分の仕事をしてた。車の分と、自分の分だ。これからは自分の分だけでいい」
涼は珈琲を受け取った。熱かった。
その夜、大黒PAに入った。
黒いFitが停まっていた。
エンジンは切れている。ボンネットに、男が背中を預けていた。缶コーヒーを片手に、PAの入口を見ていた。
涼がインテグラを停めて降りると、イイダは視線を動かさないまま言った。
「直したか」
「直しました」
「足じゃないな」
「デフです」
イイダは缶を傾けた。中身を飲み干して、ゴミ箱に投げる。
「なら走るか」




