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NIGHTCROSS(ナイトクロス)  作者: wisemanjr4
LAP.2 崇高のR編

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第五十章 舵を戻す

シャッターの隙間から、朝の光が床に線を引いていた。


ミウラはインテグラのフロントバンパーの端を、指でなぞっていた。白い擦り跡が残っている。壁の線が、そのまま車に移っていた。


「近かったな」


「十センチもなかったです」


「数字で言うな」ミウラは指を離した。「走りを話せ」


涼は話した。橋の上で車体が跳ねたこと。S字の一つ目で深く入ったこと。イイダのFitが、舵を戻してから踏んでいたこと。自分は舵が残ったまま踏んでいたこと。


ミウラは途中で口を挟まなかった。珈琲にも手をつけなかった。


「気づいたのは、走ってる最中か」


「はい」


「なら半分は済んでる」


「もう半分は」


「車だ」


ミウラはリフトを上げて、インテグラの下に入った。懐中電灯の光がデフの周りを動く。金属を叩く音が、二度、三度。


「LSDがK20Aのトルクに負けてる。ターボを積む前の設定に、少し手を入れただけだ。フロントが外へ逃げるのを、お前がステアリングで押さえてた」


「腕で抑えてたんですか」


「抑えられるから、気づかなかった」ミウラは這い出てきて、手を拭いた。「組み直せば、舵が残ってても車が内へ引き込む」


「なら、戻してから踏む必要は」


「要る」即答だった。「直すのは車の話だ。順番の話は別だ。イイダは車に頼って速いんじゃない。順番を一つも飛ばさないから速い」


「切る、戻す、踏む」


「だから静かなんだ。無駄な動きがないと、車は音を立てない」


ミウラは工具棚に向かった。


「LSDは三日で組む。その間に、順番を身体に入れておけ」


大井ジャンクションの手前に、長い左がある。


夜中の二時。涼は代車のR2ではなく、まだ走れるインテグラで入った。LSDは古いままだ。それでいい。癖を直すには、癖が出る状態で走る方がいい。


三速。回転を五千に合わせる。


ブレーキ。ノーズが沈む。ステアリングを切る。


「切る」


ターボが息を吸う音がした。


「戻す」


ステアリングを、中央へ返し始める。


「踏む」


右足を床へ。


タービンが立ち上がるのが、半拍遅れた。舵を戻しきるのを待ちすぎた。出口でスピードが乗らない。


次の周回で、大井の手前まで戻ってやり直した。


切る。戻す。踏む。


今度は早すぎた。舵が残ったまま踏んでいた。フロントが外へ膨らんで、ステアリングを押さえ込んだ。いつもの癖だった。


もう一度。


切る。戻す。踏む。


同じ左を、十回走った。二十回走った。


三十回目の手前で、気づいた。


ターボには、ラグがある。踏み込んでからタービンが回り出すまでの、ほんのわずかな空白。この空白の間に、舵を戻せばいい。戻し始めを、踏む前に置く。踏んだ瞬間に、もう戻っている。


「戻す」の最中に、右足が動き始める。順番は守ったまま、境目だけが重なる。


三十一回目の左で、タービンが立ち上がった時、ステアリングはすでに中央にあった。


背中に圧が来た。


フロントは、逃げなかった。


車が前へ出た。


涼はアクセルを抜かないまま、次のコーナーまで走り続けた。


大黒PAに戻ると、ヤマネがいた。


煙草に火をつけたまま、涼のインテグラを見ていた。


「大井の左、走ってたナ」


「見てたんですか」


「音でわかるヨ」ヤマネは煙を吐いた。「同じコーナーを何度も回る奴は、ここでは珍しい」


「順番を、入れてました」


「順番」


「切る、戻す、踏む」


ヤマネは煙草を口から離した。しばらく、涼の顔を見ていた。


「誰から聞いた」


「イイダさんの走りから」


「そうか」


ヤマネは短く言った。それ以上は聞かなかった。煙草を踏み消して、自分のRX-7に戻りかけた。


背中越しに言った。「あの男の走りを、盗もうとするなよ」


「盗むつもりは」


「わかってるヨ」ヤマネは振り返らなかった。「盗むと、自分の走りが消える。お前のインテグラは、お前の走りで速くなった。借りて、返すつもりで使え」


ヤマネのRX-7が、PAを出ていった。


涼はインテグラのボンネットに手を置いた。K20Aの熱が、掌に残った。



預けて三日後の夕方、ミウラから連絡が来た。


「組み上がった」


ショップに着くと、インテグラは作業台の前に出ていた。ボンネットは閉まっている。外見は何も変わっていなかった。


「走ってこい」ミウラは言った。「近場だけだ」


キーを差した。エンジンをかけた。音は同じだった。


ショップの前の道路で、最初の左に入った。


ステアリングを切る。


まだ戻していない。


アクセルを、少しだけ踏んだ。


インテグラのノーズが、内へ引き込まれた。


舵角が残っていても、フロントが外へ逃げない。ステアリングに、押さえ込む手応えがなかった。手が、軽い。


「……ああ」


声が出た。


腕が今まで、何を抑えていたのか。それが、抑えなくなって初めてわかった。


ショップに戻ると、ミウラが珈琲を二つ用意していた。


「どうだ」


「軽いです。手が」


「それでいい」ミウラは珈琲を差し出した。「今まで、お前は二人分の仕事をしてた。車の分と、自分の分だ。これからは自分の分だけでいい」


涼は珈琲を受け取った。熱かった。


その夜、大黒PAに入った。


黒いFitが停まっていた。


エンジンは切れている。ボンネットに、男が背中を預けていた。缶コーヒーを片手に、PAの入口を見ていた。


涼がインテグラを停めて降りると、イイダは視線を動かさないまま言った。


「直したか」


「直しました」


「足じゃないな」


「デフです」


イイダは缶を傾けた。中身を飲み干して、ゴミ箱に投げる。


「なら走るか」

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