第四十九章 二百メートルの内側
大黒ジャンクションの合流で、黒いFitが並んだ。
ルールは決めていなかった。イイダがパッシングを一度だけ光らせた。それで足りた。
「……来たか」
涼はシフトを二速に落とした。
タコメーターの針が跳ねる。回転数は四千。ターボはまだ眠っている。この領域で踏んでも、K20Aは自然吸気の顔しか見せない。
「ここじゃない。まだ、ここじゃないんだ」
左足でクラッチを切る。右足はスロットルに残したまま、三速へ。ギアが噛み合う感触が、ステアリング越しに掌へ返ってきた。補強したボディは、そういう細かい音まで拾う。
五千。五千二百。
タービンが目を覚ました。
背中がシートに押しつけられる。ブースト計の針が0を越え、0.8、1.0と立ち上がっていく。視界の両端が、ほんの少し流れ始めた。
「乗った。ここから一気に来る」
Fitは右斜め前にいた。
ノーマルの顔をした黒いボディが、涼のインテグラと同じ速度で走っている。同じ、というのは正確じゃない。あちらが合わせてきている。ぎりぎり並べる位置を、あえて選んでいる。
「舐めてるのか。いや、違うな」
声に出してから、否定した。
イイダは舐めていない。距離を測っている。涼の速度域を、身体で確かめている。
湾岸線に入った。
ここから本牧まで、およそ十二キロ。直線が長い。壁が遠い。ターボ車の領域だ。
四速。
回転が七千を越えた。K20Aが高い声で鳴き始める。ブーストは1.3で頭打ちになった。それ以上は、ミウラが上げさせなかった。
「1.3か。今日は、ここで戦う」
ミウラの言葉が浮かびかけた。
すぐに消した。今は要らない。
Fitが前に出た。
わずかだった。車体の半分。それが一台分になった。涼は右足を床まで踏み込んだ。スロットルはとっくに全開だ。踏み込む場所は、もう残っていない。
「開くのか。ここで」
エンジンの音が変わる。Fitは静かなままだった。悲鳴も唸りもない。ただ、進んでいく。
一台分が、二台分になった。
「直線で勝てるとは思ってない。最初から思ってない。だが、こんな簡単に離れるのか」
奥歯を噛んだ。ステアリングを握る手に、力が入りすぎていた。
抜く。肩を抜く。
ヤマネに何度も言われた。力んだ腕は、路面の声を聞き逃す。
「息を吐け。次だ、次のコーナーだ」
前方に、東扇島の緩い左が見えた。
ここは半径が大きい。高速コーナーだ。ステアリングを切る量は少ない。しかし速度が高いから、荷重の乗せ方が全部を決める。
百メートルの看板を、視界の端で拾った。
まだ踏む。
七十メートル。
まだ、踏む。
Fitのブレーキランプが点いた。
「今だ」
涼は右足をブレーキに移した。
ペダルを踏み込むのではなく、乗せた。強く、しかし急がず。フロントにゆっくりと荷重が移っていく。ノーズが沈む。タイヤが路面を噛む。
「まだだ。まだ離すな」
ブレーキを残したまま、ステアリングを切り込んだ。
トレイルブレーキング。制動をコーナーの入口まで引きずる。FFの荷重は、前に乗せておけば曲がる。前に残しておけば、フロントが仕事をする。
インテグラのノーズが、内側へ吸い込まれていった。
「入った。決まった」
Fitのテールランプが、すぐ目の前にあった。
直線で開いた二台分が、コーナーの入口だけで半分に戻っている。
「ここだ。ここでしか詰められない」
リリース。ミウラに指摘された場所。頂点より少し奥。そこまでブレーキを抜かない。
抜いた。
同時に、右足をスロットルへ移す。ターボが一瞬だけ遅れる。そこを待つ。
ラグ。
タービンが回転を取り戻すまでの、ほんの数分の一秒。この間に、ステアリングを戻し始める。
「来い。来い、来い」
ブーストが立ち上がった。
背中に、圧が来た。
フロントタイヤが、路面を掴んだまま前へ引っ張っていく。リアは踏ん張っている。補強と足回りが、トルクを路面へ流している。
「出る。出られる」
Fitは、コーナーの出口で半車身だけ前にいた。
抜けなかった。しかし、離されてもいない。
「並べる。あと少しで並べる」
次の直線に入った。
またFitが動いた。
今度は加速の仕方がわかった。涼は目でそれを追った。Fitは、アクセルを踏み込む瞬間に、ステアリングをほとんど動かさない。舵を戻しきってから踏む。その順番が、恐ろしく正確だった。
「そうか。切り足しじゃない。切ったら戻して、それから踏んでる」
自分は違う。
涼はコーナーの出口で、まだ舵が残っているうちに踏み始めていた。ターボのトルクを信じすぎている。舵角が残ったまま加速するから、フロントが外へ逃げようとする。逃げる分を、ステアリングで押さえ込んでいる。
そこで、ほんのわずか、ロスが出ていた。
「くそ、そこか」
声が出た。
悔しさではなかった。見つけた、という声だった。
ベイブリッジが見えてきた。
長い上り。
ここは涼の苦手な区間だった。空気が薄くなる。壁がなくなる。視界が開ける分、速度感が消える。数字だけが上がって、身体が追いつかない。
「六速。ここは六速で、ブーストが落ちない」
シフトアップした。
ギアが吸い込まれるように入る。回転が六千まで落ちて、また立ち上がった。ブースト計が1.3に戻る。
Fitが前にいた。
一台分。
橋の上は風が強かった。車体が微かに揺れる。ステアリングを持つ手に、横風の圧が伝わる。
イイダのFitは、まったく揺れていなかった。
橋の継ぎ目の音が、規則正しく響く。タタン、タタン。涼のインテグラだけが、そのたびにわずかに跳ねた。
「差がある。足じゃない。何が違う」
考えるのをやめた。橋の上で考えても答えは出ない。
橋を降りきった。
本牧の手前で、道が右へ曲がり始めた。
そして、あの区間が来た。
S字。
右、左、右。三連続。壁が近い。この道で最もタイトな区間の一つだった。涼が、最初の頃に最も苦手にしていた場所だった。
「ここだ。ここでしか勝負できない」
涼はシフトを四速に落とした。
回転が跳ね上がる。エンジンブレーキが効いて、車体がぐっと沈む。同時にブレーキを踏む。ヒール&トゥ。右足のつま先でブレーキ、かかとでスロットルを煽る。
回転数が合った。ギアが繋がった。
「合った」
右へ。
ステアリングを切る。ノーズが向く。ブレーキを残す。荷重が前へ乗る。
Fitのテールランプが、すぐ前にある。
その光の位置が、微妙にずれた。
Fitのラインが、外側へ膨らんだ。
「入口を、浅くした?」
一瞬で理解した。
イイダは、一つ目の右を浅く入っている。次の左に、速度を残すために。連続コーナーは、最初を犠牲にして二つ目、三つ目を取る。
「知ってる。オレも知ってるさ。でもそれを、この速度でやるのか」
涼は選んだ。
同じ手を使うか。それとも自分のやり方で入るか。
一秒もなかった。
「オレのやり方でいく」
深く入った。
イイダより一メートル奥へ。ブレーキを残したまま、ステアリングをさらに切る。内側の壁が視界に迫る。壁の白い線が、フロントガラスの端を流れていく。
「近い。近い近い近い」
心臓が喉まで上がった。
しかし目は壁を見なかった。出口を見た。出口だけを見た。
リリース。
スロットル。
フロントが向いた。壁とインテグラの左側面のあいだが、十センチもなかった。
「抜けた」
一つ目の右を、抜けた。
Fitが横にいた。
ほとんど並んでいる。二台が肩を並べて、次の左へ向かっていた。
「次だ。次は外側から入る。イイダさんの内側は取れない」
左のコーナーで、涼が外側になった。Fitが内側を取っている。
内側を取られるということは、ラインを塞がれるということだ。
「詰まる。ここで前に出られたら」
イイダの走りが、変わった。
さっきまでの、涼の速度域を測るような走りではなかった。ラインが鋭くなった。減速から加速までの時間が短くなった。すべてが一段、研ぎ澄まされた。
「本気を出してきた。来たな」
笑いそうになった。
笑えなかった。
Fitが、内側から前へ出た。
出口で、涼のノーズの前を、すっと横切った。
「離されるのか。ここで」
二つ目の左を抜けて、三つ目の右に入った。
Fitのテールランプが遠い。
半車身。一台分。
「踏め。踏め、踏め、踏め」
三つ目の右で、涼はもう一度深く入った。
さっきより奥へ。
フロントタイヤが悲鳴を上げた。ステアリングが軽くなる。アンダーステアの前兆。フロントが外へ逃げようとしている。
「ここで諦めたら終わる」
ブレーキを、ほんの少しだけ強く踏んだ。
荷重をフロントに足す。タイヤの限界の、ぎりぎり内側へ。ノーズがもう一度、内へ向いた。
「戻った」
抜けた。
S字を、抜けた。
長い直線が、目の前に開いた。
Fitは、二台分先にいた。
「開いた。S字を出た時点で、二台分」
涼はスロットルを床まで踏んだ。ターボがフル過給に入る。ブーストが1.3を指して、そこで止まる。K20Aが七千五百まで吹け上がる。
「まだ足りない」
Fitとの距離が、縮まらない。
それは、前にも経験した感覚だった。
しかし今夜は、あの時と違った。
差が開いていかない。二台分のまま、一定でついていく。テールランプが、視界の中に、確かに残り続けている。
「見えてる。見えてるんだ、ちゃんと」
大黒の出口が近づいてきた。
最後のコーナーだった。長い右のS字を抜けて、大黒ふ頭の出口ランプへ入る。ここが、このバトルの終点だった。
「ここでしか、詰められない。ここだけだ」
涼は、ブレーキを遅らせた。
看板の百メートルを越えて、七十メートルを越えて、五十メートルを越えても踏み続けた。
Fitのブレーキランプが点いた。
「今、ここだ」
涼はブレーキを踏まなかった。
まだ、踏まなかった。
三十メートル。
「足りるか。足りるのか」
二十メートル。
「行け」
ブレーキ。
思い切り、踏んだ。
ABSのペダルが足の裏を叩いた。ノーズが沈み込む。シートベルトが胸を締める。視界が縦に揺れる。
止まる。
止まりきれる。
「決まる。ここで決まる」
ステアリングを切った。インテグラが、鋭く右へ向いた。フロントがぎりぎりで路面を噛んでいる。内側の縁石が、目の前にあった。
Fitのテールランプが、すぐ横にあった。
並んだ。
出口で、二台が横に並んだ。
そして、そのまま直線のランプへ。
「勝った。届いた、いや」
Fitが、加速した。
静かな加速だった。涼のターボのような、爆発的な立ち上がりはない。それでも、確実に、前に出ていく。
半車身。
一台分。
出口ランプの終わりで、イイダが前にいた。
二台とも、減速した。
大黒PAの入口で、Fitが先に停まった。
涼は、そのすぐ後ろに停まった。
エンジンを切った。
耳鳴りがした。ターボの余熱が、ボンネットの下でカチカチと鳴っている。手のひらがステアリングの形に固まっていた。
指を、一本ずつ開いた。
「……負けた」
声に出した。
短く、それだけだった。
イイダが車から降りてきた。涼のインテグラの横に立った。窓を開けると、男は覗き込むように言った。
「S字」
「はい」
「一つ目で、深く入ったな」
「入りました」
「オレなら入らない」イイダは言った。「あの速度で、あの深さは、入らない」
「でも」
「それでも抜けたな」
イイダはインテグラのフロントを見た。バンパーの端に、壁の白い線がうっすらと擦れた跡が付いていた。
「近かったヨ」
涼は何も言えなかった。
「それでいい」
イイダは、それだけ言った。
Fitに戻って、ドアを閉めた。エンジンがかかった。静かな音のまま、黒いボディがPAを出ていった。
涼は、その背中を見送ったあとで、ステアリングに額を預けた。
心臓が、まだ速く動いていた。
S字の壁の白い線が、目の奥にまだ流れていた。
大黒の夜風が、窓の隙間から入ってきた。涼は顔を上げた。
今回は実験的に、詳細に試合を描写してみました。是非是非、ご意見ください。
あと地理エアプすぎて一部地名がおかしいかもしれません;;




