第四十八章 蒼い影
松田から連絡が来たのは、深夜だった。
「今夜、変なことがあって」
「残光ですか」
「違います」少し間があった。「残光じゃなくて、黒いコンパクトが後ろについてきた」
涼は少し止まった。
「怖かったですか」
「怖くなかった」松田は言った。「残光の時と、似た感じがして。なんか、確かめてるみたいだった」
電話を切った後、涼はしばらく天井を見ていた。
イイダがSVXについていった。
残光がSVXについていくのは、WZEBRAのステッカーがあるからだと思っていた。しかしイイダとWZEBRAの間に、直接の繋がりはない。
翌日、ミウラに話した。
「イイダさんがSVXの後ろについていったらしい」
ミウラは工具を拭く手を止めなかった。
「そうか」
「なぜだと思いますか」
「白石だろうヨ」少し間を置いた。「白石とイイダは、一度だけ並んだことがある。走りの中だけで繋がった。言葉は交わしていない。それでもあのSVXを見たら、体が動くんじゃないか」
「白石さんが乗っていた車だから」
「そうだヨ」ミウラは工具を置いた。「この道にはそういうことがある。言葉じゃなくて、走りで繋がった記憶が、車体に残る。理屈じゃない」
走り続ける限り、消えない。
白石の手紙の言葉が、また別の場所から返ってきた。
その夜、涼は松田と大黒PAで落ち合った。
SVXが停まっていた。白いボディに、夜の照明が当たっていた。褪せたWZEBRAのステッカーが、リアウィンドウに光っていた。
「イイダさんという人だと思います」涼は言った。「違法時代からいる古参です。白石さんと一度だけ走ったことがある」
松田はSVXを見た。
「この車を見て、ついてきたのか」
「たぶん」
松田はしばらく、ステッカーを眺めていた。
「怖くなかった、って言いましたけど」やがて言った。「なんか、懐かしい感じがしたんですよね。会ったこともないのに」
涼には何も言えなかった。
松田がSVXのドアを開けた。乗り込んだ。エンジンをかけた。水平対向の音が、静かにPAに響いた。
「走ってきます」松田は言った。
「気をつけて」
SVXがPAを出ていった。
涼はしばらく、その場に立っていた。
松田がこの道に入ってきてから、少しずつ変わっていた。最初は車の重さに戸惑っていた。今は重さの使い方がわかってきたと言った。SVXを通じて、白石の走りの記憶を少しずつ受け取っている。
白石は死んで、SVXだけが残った。SVXが走り続けることで、白石が残り続けている。
インテグラのキーを握った。
走り出そうとした時、PAの入口に黒いFitが入ってきた。
静かに涼の隣に停まった。イイダが降りてきた。
涼のインテグラを見て、それからPAの出口を見た。SVXが消えた方向を。
「松田さんを知ってるんですか」涼は言った。
「知らない」イイダは答えた。「ただ、あの車は知ってる」
「白石さんと走ったことがあるから」
イイダは答えなかった。
二人の間で、風が通り過ぎた。
「白石さんのことを、話せますか」涼は言った。
イイダはしばらく黙っていた。PAの照明を見ていた。
「一度だけ並んだ」やがて言った。「言葉は交わしていない。ただ、走りはわかった」
「どんな走りでしたか」
「正直な走りだったヨ」イイダは静かに言った。「嘘をつかない走りだった。車も、本人も」
涼はその言葉を聞いて、インテグラのことを思った。
嘘をつかない車だ、と最初に思った日のことを。
「それだけですか」
「それだけだヨ」イイダは言った。「それだけで、十分だった」
Fitのドアを開けた。乗り込んだ。エンジンをかけた。
静かな音が、夜の大黒PAに低く響いた。
黒いFitがPAを出ていった。
涼は二台のテールランプが消えた方向を見た。




