第四十六章 旧い速度
カジワラに会ったのは、偶然だった。
大黒PAのいつもの場所。
カジワラが自販機の前でコーヒーを開けていた。涼が近づくと、一瞥だけした。
「Fitと走ったそうだな」
「走りました」
「勝ったか」
「一瞬だけ前に出た」
カジワラはコーヒーを一口飲んだ。
「知ってるんですか、あの男を」
「昔の話だ」カジワラは自販機に背中を預けた。「オレが走り始めた頃、すでにあの黒いコンパクトはいた。絡んだことはない。ただ、同じ夜に同じ道を走ったことは何度かある」
「どんな走りでしたか」
「静かだった」カジワラは遠くを見た。「速いのに、静かだった。エンジン音が大きいわけでも、ブレーキが遅いわけでも、ラインが際どいわけでもない。ただ速かった。なぜ速いのかが、外から見てもわからなかった」
涼にはその感覚が、腕の記憶として残っていた。昨夜並んだ時、あの黒いFitから感じたものと同じだった。
「残光を見たのも、同じ頃ですか」
カジワラは少し間を置いた。
「同じ頃だヨ」短く言った。「あの時代に首都高を走っていた奴は、みんな何かに触れた。残光か、あの男か、あるいは別の何かに。……触れた後で、走り方が変わった」
「カジワラさんは何に触れたんですか」
コーヒーの缶を見た。少し考えるような間があった。
「両方だヨ」
それだけ言って、缶を握りつぶすように飲み干した。
その夜、涼は一人で走った。
湾岸の長い直線に入った時、あの夜のことを考えていた。並んだ一瞬。黒いボディが横にあった時間。そしてあの男が降りてきて言った言葉。
速くなったな、と言った。
その言葉の重さが、走りながら変わっていった。
最初に聞いた時は評価だと思った。しかし今は違う気がした。あの男は涼の走りを見て、過去の自分を見ていたのかもしれない。残光に近づきかけていた頃の、自分を。
そう思ったら、あの言葉が少し怖くなった。
速くなったな、という言葉の後ろに、それでも届かなかった、という言葉が続いている気がした。
次のコーナーに向いた。ブレーキング。リリース。アクセル。ターボが効く。
リアが踏ん張る。
暫く、惰性で走る。
大黒PAに戻ると車が一台、端に停まっていた。
黒いコンパクトカーだった。
エンジンが切れていた。ライトも消えていた。ただ停まっていた。
涼は少し迷ってから、近づいた。
窓が少し開いていた。男がシートに深く座って、外を見ていた。涼が近づいても、動かなかった。
「また来たか」男は言った。涼を見なかった。
「来ました」
「何かあったか」
「カジワラさんに話を聞きました。あなたのことを」
男は少し笑った。表情が動いたのは、それだけだった。
「カジワラ」繰り返した。「あいつも、まだ走ってるのか」
「走ってます」
「そうか」
PAの照明が、黒いボディを照らしていた。コンパクトな車体。見慣れたシルエット。しかしこうして止まっているのを見ると、ただの古い車だった。
「一つだけ聞いていいですか」涼は言った。
男は答えなかった。否定もしなかった。
「残光が逝った後、どのくらい走り続けたんですか」
窓の外で、風が通り過ぎた。
「数えてない」男は言った。「数える意味がなかった。走ったから走った。それだけだヨ」
「寂しくなかったですか」
男はしばらく黙った。
「なかったヨ」やがて言った。「寂しい、と思う暇がなかった。追いかけるものがなくなって、それでも踏んでたら、気づいたら何年も経ってた」
「残光が戻った時は」
「驚いた」男は窓の外を見たまま言った。「驚いて、気づいたらここにいた。体が先に動いた」
体が先に動いた。
涼はその言葉を、静かに受け取った。
「名前を聞いていいですか」
男は少し間を置いた。
「イイダだ」
苗字だけ言った。それ以上は言わなかった。涼も聞かなかった。この場所では、そういうものだった。
「また走るか」イイダは言った。
「走ります」
「ならいい」
窓が閉まった。
エンジンがかかった。静かな音だった。黒いFitが、PAをゆっくりと出ていった。テールランプが遠くなって、首都高の入口へ消えた。
涼はその背中を見送った。
イイダ。
名前だけ残った。それだけだったが、以前とは違った。名前のない影が、少しだけ輪郭を持った。
涼もインテグラに乗った。
走り続けていれば、見えてくる。ミウラが言っていた言葉が戻ってきた。
首都高に、蒼いボディが滑り込んでいった。




