第四十五章 名前のない男
ヤマネは話を最後まで聞いてから、煙草を一本吸い切った。
「……古い男だナ」
「知ってるんですか」
「知らないヨ」踏み消した。「ただ、話だけは残ってる。オレが走り始めた頃、もうすでに古参だと言われてた黒いコンパクトがいた。名前を聞いたことがない。PAで見たこともない。深夜に出て、深夜に消えた」
「ずっと一人で」
「そうだヨ」ヤマネは新しい煙草に火をつけた。「速い、とは聞いてた。ただそれだけだ。繋がろうとしない男だった、という話だけが残ってた」
「残光を追いかけてると言ってました」
煙草を持った手が、少しだけ止まった。
「そうか」ヤマネは煙を吐いた。「それなら合点がいくヨ。なぜ今もここにいるのか」
「残光が戻ったから」
「たぶんナ」遠くを見た。「追いかけるものを失っても、やめ方がわからなくなる奴がいる。……あの男は、ずっとそうだったんだろうヨ」
PAの照明が、白く地面を照らしていた。
「また会いますかね」
「会うだろうヨ」ヤマネはあっさり言った。「声をかけてきた、ということはナ、お前が目に入ったということだ。長くここを走ってきた奴が誰かに声をかけるのは、よっぽどのことだ」
それ以上は言わなかった。涼も聞かなかった。
ミウラは話を聞き終えてから、珈琲を一口飲んだ。
「白石から、昔聞いたことがある」
「その男のことを」
「名前は知らない。ただ」珈琲を置いた。「黒いコンパクトで、PAに来ない男と走ったことがある、と。一度だけ並んだ、と白石が言ってた。忘れられない走りだった、と」
涼は少し考えた。白石とあの男が、かつてこの道で並んでいた。
「白石さんはその後、残光を意識し始めた」
「同じ時代だ」ミウラは工具を手に取った。「あの速度域に触れた人間は、変わっていった。みんな」
「あの男も」
「そうだろうヨ」
シャッターの向こうで風が鳴った。
「残光が走り続ける限り、あの男も走り続ける」涼は言った。自分に確認するように。
ミウラは答えなかった。答えない、ということが答えだった。
「涼」
「はい」
「お前は今、何を追いかけてる」
Fitを追いかけていた。そのFitのドライバーが残光を追いかけていた。残光は誰かを追いかけているのか。この道には、追いかけることを連鎖させる何かがある。
「少なくとも」涼は言った。「何を、はまだわからないけど」
「それで十分だヨ」ミウラは短く言った。「走り続けてれば、見えてくる」
ショップを出た。
深夜の首都高が、高架の上に伸びていた。




