第四十四章 パッシング
縮まっていた。
今夜の縮まり方は、今まで一番速かった。
ターボが全開になっている。K20Aが唸っている。オオタのB16Bのデータを頭の中に置きながら、涼は踏み続けた。データの意味が、走りながら少しずつわかってきていた。エンジンの限界を知っている人間の記録が、今夜の走りを支えていた。
Fitのテールランプが大きくなっていく。
大きくなっていく。
並ぶ、と思った瞬間、Fitが車線を変えた。
涼も変えた。
Fitがペースを上げた。
涼も上げた。
以前なら、ここで差が開いていた。今夜は開かなかった。開かないまま、テールランプが視界の中に残り続けた。
Fitが都心環状に向かった。涼は後ろについた。
C1は壁が近い。カーブが多い。湾岸の広い直線とは別の道だった。しかしターボを積んだインテグラには、C1のコーナーが武器になっていた。ターボのトルクをコーナーの奥で使う。その走り方が、C1で機能した。
Fitが右コーナーに向いた。
涼も向いた。
ブレーキング。奥まで引きつける。リリース。アクセル。ターボが効く。リアが踏ん張る。
コーナーを抜けた。
並んでいた。
並んだまま、直線に出た。
左を見た。
黒いボディが、横にあった。コンパクトな車体。見慣れたシルエット。しかし今夜は横から見ていた。並んでいた。
Fitが前に出た。
涼は踏んだ。全部踏んだ。
出なかった。Fitが前に出た。以前と同じだった。本気を出したFitには、今夜のインテグラでも届かなかった。
しかし今夜は違うことがあった。
差の開き方が、違った。
以前はあっという間に消えていった。今夜は、差が開いていくのが見えた。じわじわと開いていくのが、はっきりと見えた。逃げていく、ではなく、前に出ていく、という開き方だった。
Fitはまだ視界にいた。
次のコーナーで、涼はパッシングを炊いた。
ヘッドライトを一度だけ点滅させた。
前回もやった。しかし今夜はその意味が違った。前回は「ここまで来た」という意思表示だった。今夜は違う。
今夜は、「まだいる」という意思表示だった。
オオタがいなくなっても、まだここにいる。まだ追いかけている。まだ届こうとしている。
Fitのテールランプが、一瞬だけ変化した。
ブレーキを踏んだわけではなかった。ペースが変わったわけでもなかった。ただ、何かが変わった気がした。
気のせいかもしれなかった。
何周か走った。
差は縮まった。縮まったが、逆転はしなかった。
Fitは速かった。本気を出した時の加速は、今夜のインテグラを超えていた。しかし以前より、本気を出すタイミングが変わっていた。以前は涼が全力を出した時に余力を見せた。今夜は、涼が並んだ時に動いた。
並んだ時に動いた、ということは。
涼が並ぶことを、想定していた。
それがわかった瞬間、涼の頭の中で何かが変わった。
Fitのドライバーは、涼のことを認識している。追いかけてくる涼を、意識している。以前は存在を無視していた。今夜は、意識している。
それだけで、今夜の意味が変わった。
長い左コーナーで、もう一度並んだ。
今度はコーナーの出口まで並んだまま持った。
直線に出た。Fitが前に出ようとした。
涼はその瞬間にパッシングを炊いた。
一度ではなかった。続けて、三回。
Fitのテールランプが、揺れた。
揺れた、というのは正確ではなかった。ほんのわずか、ペースが乱れた。乱れた、というほどでもなかった。ただ、直線への加速が、コンマ何秒か遅れた。
涼は踏んだ。
前に出た。
前に出た。
Fitの前に、インテグラがいた。
一秒。二秒。三秒。
Fitが来た。来るのがわかった。加速してくる気配が、バックミラーから伝わってきた。
涼は踏み続けた。
次のコーナーに向いた。ブレーキング。奥まで引きつける。リリース。アクセル。ターボ。リアが踏ん張る。
コーナーを抜けた。
まだ前にいた。
Fitが来た。次の直線で来た。バックミラーの中で、黒いボディが迫ってくる。
次のコーナー。涼が向いた。Fitも向いた。
涼がコーナーを抜けた。
Fitが、わずかに膨らんだ。
コンマ何秒かのズレだった。それだけだった。しかしそのズレが、差を生んだ。
出口で、涼が前にいた。
次の直線。Fitが全力で来た。
涼も全力で踏んだ。
縮まってくる。縮まってくる。次のコーナーまで持つかどうか。
持った。
コーナーに入った瞬間、涼はまだ前にいた。
何コーナーか続いた。
Fitが前に出ようとするたびに、涼はコーナーで差を作った。直線で縮まられる。コーナーで作る。その繰り返しが、続いた。
体力が削られていった。集中力が削られていった。
しかし踏み続けた。
オオタの声が、まだ頭の中にあった。
黒いFitに、お前が届くのを見たかった。
「見てるか」涼は言った。走りながら言った。「まだ見てるなら、そのまま見ていてくれ」
Fitが、速度を落とした。
落とした、というのは一瞬のことだった。次の出口で、Fitがランプに向かった。
降りた。
涼も降りた。
駐車できる場所を探した。路肩に寄せた。エンジンを切った。
しばらく何もしなかった。
窓をノックされた。
驚いて見ると、人が立っていた。
ヘルメットをかぶっていなかった。赤いジャケットを着た、細身の人間だった。顔が見えた。
三十代くらいだった。涼より少し上か。
「さっきのインテグラの人か」
声が出た。
「そうです」
男は少し間を置いた。
「速くなったナ」
その言葉の意味が、一瞬わからなかった。速くなった。それはこの男が、以前の涼を知っているということだった。
「あなたが」涼は言った。「Fitのドライバーですか」
男は答えなかった。答えなかったが、否定もしなかった。
「一つだけ聞いていいですか」涼は言った。
「何だ」
「なぜあの速度で走っているんですか。あの車で」
男はしばらく黙った。夜風が通り過ぎた。
「追いかけているものがある」やがて言った。
「何を」
男は遠くを見た。首都高の高架が、夜の空に伸びていた。
「蒼い残光だ」静かに言った。「ずっと追いかけている。追いつけないまま、ずっと」
涼は何も言えなかった。
蒼い残光を追いかけている。
あの速度域で走り続けながら、まだ追いつけないものを追い続けている。
男は涼を見た。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
温度のある笑い方だった。
それだけで、涼には十分だった。
「また走ろう」男は言った。「まだ終わっていない」
踵を返して、歩いていった。
暗がりの向こうに、黒いコンパクトカーが停まっていた。
涼はその背中を見送りながら、胸の中で何かが変わったのを感じた。
追いかけていたものが、追いかけているものだった。
蒼い残光を。
あの速度域で走りながら、まだ届かないものを追い続けている。
それを知ってしまったら、もう止まれなかった。
涼はインテグラのエンジンをかけた。
次に向かうものが、見えていた。
悪魔のフィット編 完




