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NIGHTCROSS(ナイトクロス)  作者: wisemanjr4
LAP.1 悪魔のフィット編

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第四十三章 走る理由

一週間、走らなかった。


走れなかった、とは少し違った。インテグラはあった。首都高もあった。ただ、エンジンをかける気になれなかった。


大黒PAには来た。


来て、停まって、他の連中が走るのを見ていた。エンジンを切ったまま、ずっとそこにいた。


ヤマネが隣に来ても、何も言わなかった。ヤマネも何も言わなかった。煙草を吸いながら、同じ方向を見ていた。


それだけだった。


五日目の夜、ミウラから連絡が来た。


「来られるか」


「行きます」


ショップに着くと、シビックの残骸が隅に置かれていた。見ないようにした。見ないようにしながら、視界の端には入っていた。


ミウラが珈琲を出した。


「走っていないな」


「走っていません」


「走れないか」


「走る理由がわからなくなった」正直に言った。


ミウラは珈琲を飲んだ。急かさなかった。


「オオタが走り続けた理由は何だったと思う」やがて言った。


「父親が見ていたものを、見たかった」


「そうだヨ」ミウラは頷いた。「見たかったから走り続けた。見つけたかったから止まれなかった。……お前はどうだ」


涼は少し考えた。


「黒いFitに届きたかった」


「今は違うか」


「今も同じです。ただ」


「ただ」


「一人になった」涼は言った。「一緒に追いかける奴がいなくなった」


ミウラはしばらく黙った。


「オオタの手紙に、何と書いてあった」


「黒いFitに、お前が届くのを見たかった、と」


「見たかった、と書いた」ミウラは静かに言った。「見たかったということは、見てほしかった、ということだヨ。お前が届く瞬間を、見たかった。……それはまだ、起きていない」


涼はその言葉を、すぐには返せなかった。


「起きていないから」ミウラは続けた。「走り続ける理由がある。オオタが見たかったものを、お前が見る。それだけでいいんじゃないか」


翌日、オオタのノートを開いた。


几帳面な字で、びっしりと書いてあった。走った日付。コーナーごとのブレーキングポイント。B16Bの回転数と油温の関係。タイヤの空気圧と路面温度。


全部が、走り込んだ人間の記録だった。


最後のページに、日付があった。死んだ夜の前日の日付だった。


その日の走りの記録の最後に、一行だけ余白に書いてあった。


B16B、今夜が一番よかった。


それだけだった。


涼はそのページを、しばらく見ていた。


死ぬ前日に、一番いい走りをしていた。父親と同じ心臓で、父親が走った道を、一番いい状態で走っていた。


それがオオタの最後だった。


七日目の夜、涼はインテグラのエンジンをかけた。


音が戻ってきた。K20Aターボの、低回転の静かな圧と、タービンが控えている感触。


走り出した。


最初のコーナーで、身体が動いた。考える前に動いた。ブレーキングのタイミングが、自然に出てきた。一週間走っていなかったのに、身体が覚えていた。


積み重ねは消えない。


ミウラが言っていた言葉が、腕を通じて戻ってきた。


湾岸を走りながら、涼はオオタのことを考えた。


考えながら走った。走りながら考えた。以前は走っている時に別のことを考える余裕はなかった。今は考えながら走れた。それだけ、走りが身体に入っていた。


オオタがいない。


その事実は変わらない。変わらないが、オオタが走り続けた時間は消えない。一緒に走った夜が消えない。あの几帳面なノートの記録が消えない。B16Bのデータが消えない。


走り続ける限り、消えない。


白石が手紙に書いた言葉が、別の意味を持って戻ってきた。


オオタが走り続けた時間は、涼の中にある。涼が走り続ける限り、消えない。


大黒PAに戻ると、ヤマネが待っていた。


涼が降りると、煙草を一本差し出した。


受け取った。火をつけた。吸った。煙を吐いた。


「戻ったか」ヤマネは言った。


「戻りました」


「よかったヨ」それだけだった。


しばらく二人で、夜景を見ていた。


「オオタは」涼は言った。「最後の夜が、一番いい走りだったらしい」


「そうか」


「ノートに書いてあった。B16B、今夜が一番よかった、って」


ヤマネは煙草を吸った。吐いた。しばらく黙っていた。


「悪くない終わり方だヨ」やがて言った。「一番いい走りの後に逝った。走り屋として、悪くない」


「悔しいです」


「悔しいヨな」ヤマネは即答した。「オレも悔しい。ただ」少し間があった。「あいつが見たかったものを、お前が見る。それがあいつへの返し方だ」


「見ます」涼は言った。「黒いFitに届く。オオタが見たかったものを、オレが見る」


「そうしろ」


煙草を踏み消した。


翌日、松田から連絡が来た。


「オオタさんのこと、聞きました」


「聞きましたか」


「少し前に」松田は続けた。「……何も言えないですけど。ただ、昨夜SVXで走ってたら」


「残光ですか」


「後ろにいました。いつもより長い間、ついてきた。湾岸から都心環状まで、ずっと後ろにいた」


涼はその話を、黙って聞いていた。


「怖くなかったです」松田は言った。「なんか、寄り添ってる感じがして。変な言い方ですけど」


変じゃない、と涼は思った。


WZEBRAが作ったものが、WZEBRAのステッカーを持つ車に寄り添っている。白石が書いた言葉通りだった。走り続ける限り、消えない。


「ありがとうございます、教えてくれて」


「涼さん」松田は少し間を置いた。「走り続けてください。オオタさんのためにも」


その言葉が、胸のどこかに刺さった。


走り続けてください。


松田はWZEBRAのことも、オオタのことも、この首都高の歴史も、まだ全部は知らない。それでも、そう言った。SVXを通じて、この道の何かを感じ取っている人間だから言えた言葉だった。


「走ります」涼は言った。


その夜、涼は一人で走った。


ターボが温まった。K20Aが唸った。湾岸の直線に入った。


アクセルを踏んだ。


タービンが効き始めた。背中への圧が来た。速度計の針が上がった。


速い。


速くなった。オオタと一緒に走っていた時より、速くなっていた。ターボを身体に入れた分、確実に速くなっていた。


しかしオオタはいない。


この速さを、隣で見ている奴がいない。


それが、まだ少し、重かった。


長い直線の終わりで、前方に黒いボディが見えた。


涼は少し止まった。


止まった、というのは一瞬のことだった。心臓が跳ねた瞬間だった。


Fitだった。


間違いなかった。あの速度域。あのシルエット。コンパクトな黒いボディ。


涼はアクセルを踏んだ。


踏みながら、頭の中でオオタの声が聞こえた気がした。


黒いFitに、お前が届くのを見たかった。


「見ていてくれ」涼は言った。


声に出した。誰にでもなく、出した。


ターボが唸った。タービンが全開になった。速度が上がった。


Fitのテールランプが、視界の中にあった。


縮まっていく。


縮まっていく。


涼は踏み続けた。

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