第四十三章 走る理由
一週間、走らなかった。
走れなかった、とは少し違った。インテグラはあった。首都高もあった。ただ、エンジンをかける気になれなかった。
大黒PAには来た。
来て、停まって、他の連中が走るのを見ていた。エンジンを切ったまま、ずっとそこにいた。
ヤマネが隣に来ても、何も言わなかった。ヤマネも何も言わなかった。煙草を吸いながら、同じ方向を見ていた。
それだけだった。
五日目の夜、ミウラから連絡が来た。
「来られるか」
「行きます」
ショップに着くと、シビックの残骸が隅に置かれていた。見ないようにした。見ないようにしながら、視界の端には入っていた。
ミウラが珈琲を出した。
「走っていないな」
「走っていません」
「走れないか」
「走る理由がわからなくなった」正直に言った。
ミウラは珈琲を飲んだ。急かさなかった。
「オオタが走り続けた理由は何だったと思う」やがて言った。
「父親が見ていたものを、見たかった」
「そうだヨ」ミウラは頷いた。「見たかったから走り続けた。見つけたかったから止まれなかった。……お前はどうだ」
涼は少し考えた。
「黒いFitに届きたかった」
「今は違うか」
「今も同じです。ただ」
「ただ」
「一人になった」涼は言った。「一緒に追いかける奴がいなくなった」
ミウラはしばらく黙った。
「オオタの手紙に、何と書いてあった」
「黒いFitに、お前が届くのを見たかった、と」
「見たかった、と書いた」ミウラは静かに言った。「見たかったということは、見てほしかった、ということだヨ。お前が届く瞬間を、見たかった。……それはまだ、起きていない」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
「起きていないから」ミウラは続けた。「走り続ける理由がある。オオタが見たかったものを、お前が見る。それだけでいいんじゃないか」
翌日、オオタのノートを開いた。
几帳面な字で、びっしりと書いてあった。走った日付。コーナーごとのブレーキングポイント。B16Bの回転数と油温の関係。タイヤの空気圧と路面温度。
全部が、走り込んだ人間の記録だった。
最後のページに、日付があった。死んだ夜の前日の日付だった。
その日の走りの記録の最後に、一行だけ余白に書いてあった。
B16B、今夜が一番よかった。
それだけだった。
涼はそのページを、しばらく見ていた。
死ぬ前日に、一番いい走りをしていた。父親と同じ心臓で、父親が走った道を、一番いい状態で走っていた。
それがオオタの最後だった。
七日目の夜、涼はインテグラのエンジンをかけた。
音が戻ってきた。K20Aターボの、低回転の静かな圧と、タービンが控えている感触。
走り出した。
最初のコーナーで、身体が動いた。考える前に動いた。ブレーキングのタイミングが、自然に出てきた。一週間走っていなかったのに、身体が覚えていた。
積み重ねは消えない。
ミウラが言っていた言葉が、腕を通じて戻ってきた。
湾岸を走りながら、涼はオオタのことを考えた。
考えながら走った。走りながら考えた。以前は走っている時に別のことを考える余裕はなかった。今は考えながら走れた。それだけ、走りが身体に入っていた。
オオタがいない。
その事実は変わらない。変わらないが、オオタが走り続けた時間は消えない。一緒に走った夜が消えない。あの几帳面なノートの記録が消えない。B16Bのデータが消えない。
走り続ける限り、消えない。
白石が手紙に書いた言葉が、別の意味を持って戻ってきた。
オオタが走り続けた時間は、涼の中にある。涼が走り続ける限り、消えない。
大黒PAに戻ると、ヤマネが待っていた。
涼が降りると、煙草を一本差し出した。
受け取った。火をつけた。吸った。煙を吐いた。
「戻ったか」ヤマネは言った。
「戻りました」
「よかったヨ」それだけだった。
しばらく二人で、夜景を見ていた。
「オオタは」涼は言った。「最後の夜が、一番いい走りだったらしい」
「そうか」
「ノートに書いてあった。B16B、今夜が一番よかった、って」
ヤマネは煙草を吸った。吐いた。しばらく黙っていた。
「悪くない終わり方だヨ」やがて言った。「一番いい走りの後に逝った。走り屋として、悪くない」
「悔しいです」
「悔しいヨな」ヤマネは即答した。「オレも悔しい。ただ」少し間があった。「あいつが見たかったものを、お前が見る。それがあいつへの返し方だ」
「見ます」涼は言った。「黒いFitに届く。オオタが見たかったものを、オレが見る」
「そうしろ」
煙草を踏み消した。
翌日、松田から連絡が来た。
「オオタさんのこと、聞きました」
「聞きましたか」
「少し前に」松田は続けた。「……何も言えないですけど。ただ、昨夜SVXで走ってたら」
「残光ですか」
「後ろにいました。いつもより長い間、ついてきた。湾岸から都心環状まで、ずっと後ろにいた」
涼はその話を、黙って聞いていた。
「怖くなかったです」松田は言った。「なんか、寄り添ってる感じがして。変な言い方ですけど」
変じゃない、と涼は思った。
WZEBRAが作ったものが、WZEBRAのステッカーを持つ車に寄り添っている。白石が書いた言葉通りだった。走り続ける限り、消えない。
「ありがとうございます、教えてくれて」
「涼さん」松田は少し間を置いた。「走り続けてください。オオタさんのためにも」
その言葉が、胸のどこかに刺さった。
走り続けてください。
松田はWZEBRAのことも、オオタのことも、この首都高の歴史も、まだ全部は知らない。それでも、そう言った。SVXを通じて、この道の何かを感じ取っている人間だから言えた言葉だった。
「走ります」涼は言った。
その夜、涼は一人で走った。
ターボが温まった。K20Aが唸った。湾岸の直線に入った。
アクセルを踏んだ。
タービンが効き始めた。背中への圧が来た。速度計の針が上がった。
速い。
速くなった。オオタと一緒に走っていた時より、速くなっていた。ターボを身体に入れた分、確実に速くなっていた。
しかしオオタはいない。
この速さを、隣で見ている奴がいない。
それが、まだ少し、重かった。
長い直線の終わりで、前方に黒いボディが見えた。
涼は少し止まった。
止まった、というのは一瞬のことだった。心臓が跳ねた瞬間だった。
Fitだった。
間違いなかった。あの速度域。あのシルエット。コンパクトな黒いボディ。
涼はアクセルを踏んだ。
踏みながら、頭の中でオオタの声が聞こえた気がした。
黒いFitに、お前が届くのを見たかった。
「見ていてくれ」涼は言った。
声に出した。誰にでもなく、出した。
ターボが唸った。タービンが全開になった。速度が上がった。
Fitのテールランプが、視界の中にあった。
縮まっていく。
縮まっていく。
涼は踏み続けた。




