第四十二章 同じ場所
ミウラから電話が来たのは、朝の五時だった。
画面を見た。ミウラからの着信。こんな時間に来たことは、一度もなかった。
出た。
「中村か」
「はい」
少し間があった。
「オオタが、逝った」
場所は湾岸線だった。
父親が死んだカーブと、同じ場所だった。
単独だった。相手はいなかった。ガードレールを越えて、それで終わりだった。シビックは原形をとどめていなかった。B16Bは、ぐしゃりと潰れた車体の中にあった。
ミウラから聞いた話だった。
現場には行けなかった。行けなかった、というより、行く気になれなかった。行ってもオオタはいない。シビックの残骸があるだけだった。
大黒PAに、自然と人が集まってきた。
誰かが連絡したわけではなかった。話が広まって、来た人間が来た。ヤマネがいた。カジワラがいた。クロサワもいた。顔だけ知っている連中もいた。
誰も、多くを喋らなかった。
ヤマネは煙草を一本吸って、踏み消して、また火をつけた。それを繰り返していた。
涼は何も言えなかった。
言えることが、なかった。
ミウラが涼の隣に来たのは、夜が白み始めた頃だった。
「シビックの話だ」ミウラは静かに言った。「残骸を引き取った。警察が終わったら、ショップに運ぶ」
「なぜですか」
「遺書があった」
涼は少し止まった。
「遺書」
「正確には、遺書というより手紙だ。オオタが書いていた。……お前に宛てた手紙だ」
涼は何も言えなかった。
「シビックの残骸を、お前に渡すと書いてあった」ミウラは続けた。「使えるパーツがあれば使え、と。エンジンのことが、いくつか書いてあった。B16Bをどこまで引き出せたか、データが残してあると。参考にしろ、と」
風が通り過ぎた。
「それだけじゃない」ミウラは少し間を置いた。「もう一つ書いてあった」
「何が」
「黒いFitに、お前が届くのを見たかった、と」
その言葉が、しばらく頭から離れなかった。
黒いFitに、お前が届くのを見たかった。
見たかった、という言葉の意味を考えた。見たかった、というのは、見られなかった、ということだ。見られないとわかっていて、書いた言葉だった。
それがわかった瞬間、涼は初めて、声が出なくなった。
声が出ない、というのは泣いているのとは違った。ただ、出なかった。胸のどこかが、重くなっていた。
ヤマネが近くに来た。
何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。
それだけだった。しかしそれだけで、十分だった。
三日後、ミウラのショップにシビックの残骸が運ばれてきた。
見るのが怖かった。しかし行った。
原形をとどめていなかった。フロントが完全に潰れていた。ドアが歪んでいた。ルーフが一部、内側に折れ込んでいた。
チャンピオンシップホワイトのボディは、もう白くなかった。
エンジンルームを見た。
B16Bが、潰れた鉄板の中にあった。ミウラが言っていた通り、ぐしゃりと潰れていた。しかし完全に終わっているわけではなかった。ミウラが確認していた。
「腰下は生きてる」ミウラは静かに言った。「ヘッドはダメだ。ただ、クランクとコンロッドは無事だ。丁寧に組んだ部分が、残った」
涼は何も言えなかった。
「オオタが走り込んだデータも残ってる」ミウラは続けた。「B16Bをどう扱えば何が引き出せるか、全部ノートに書いてあった。几帳面な奴だったから」
几帳面な奴。
ミウラが過去形で言った。
手紙を読んだのは、その夜だった。
便箋三枚だった。几帳面な字だった。走った後に毎回ノートに記録していた、あの字と同じだった。
最初の二枚は、B16Bのことが書いてあった。どのくらいの回転数でどのくらいのトルクが出るか。どこを限界にセッティングしたか。次のステージに行くなら何が要るか。
涼には、その数字の意味がほとんどわかった。一緒に走り続けてきたから、わかった。
最後の一枚だった。
お前がFitに届く日が来ると思ってた。今でも思ってる。
オレはそこまで行けなかった。父親が見ていたものを、最後まで見られなかった。
ただ、同じ場所まで行った。同じカーブで、同じように止まった。それでよかったと思ってる。
シビックを使ってくれ。B16Bのデータを使ってくれ。オレが走り込んだ分が、お前の役に立てば、それでいい。
一緒に走れてよかった。
黒いFitに、お前が届くのを見たかった。
手紙を置いた。
しばらく、天井を見ていた。
オオタがいなくなった。
同じ場所で、同じように逝った。父親と同じカーブで、父親と同じように止まった。それでよかった、と書いていた。本人がそう書いていた。
しかし涼にとって、それでよかったとは思えなかった。
思えなかった。思えなかったが、オオタがそう書いた意味は、わかる気がした。父親の気持ちを、最後にわかった夜だったのかもしれない。止まれない夜を、父親も走っていた。その感覚を、同じ場所で確かめた。
それがオオタにとっての、答えだったのかもしれない。
翌日、ミウラに電話した。
「シビックの残骸、引き取ります」
「わかった」
「B16Bのデータも、もらいます」
「持っていけ」
「使い方はまだわからないけど、いつか使います」
「そうしろ」ミウラは静かに言った。「オオタが走り込んだ分が、無駄にならないように使え。それが一番だ」
電話を切った。
窓の外で、首都高の高架が見えた。昼間の光の中では、ただのコンクリートの構造物だった。しかし夜になると、あの道はまた別の何かになる。
オオタが走り続けた道。
父親が逝った道。
涼がこれからも走り続ける道。
「また走る」涼は言った。誰に向かってでもなく、言った。「お前が見たかったものを、オレが見る」
首都高の高架が、昼間の光の中で静かにそこにあった。




