第四十一章 予兆
何かが違った。
具体的に何が、とは言えなかった。しかし走り出した瞬間に、今夜のオオタが違うとわかった。
B16Bの音が違った。
回転数が高かった。いつもより早い段階から回していた。丁寧に慣らしていた先週までとは、別の乗り方だった。
涼は後ろからついた。
コーナーへの入り方が、変わっていた。先週の静かな走り方ではなかった。奥まで攻め込んでいた。限界の少し内側を走る、とミウラが言っていた走り方ではなく、もっと際どい場所を走っていた。
直線で並んだ。
「今夜、どうした」
「どうもしてない」オオタは前を見たまま言った。
「走り方が違う」
「そうか」
それだけだった。
大黒PAに戻ると、ヤマネが待っていた。
涼が近づくと、煙草を踏み消しながら言った。
「見てた」
「今夜のオオタ、変ですよね」
「変だヨ」ヤマネは短く言った。「先週と別人みたいだ。何かあったか」
「わからない」
オオタが車から降りてきた。ヤマネを見て、一瞬だけ目を逸らした。
「何かあったか」ヤマネが直接聞いた。
「何も」
「走り方に出てるヨ」
「そうか」オオタは短く言った。否定しなかった。
三人の間で、風が通り過ぎた。
「父親の車を見てきた」オオタはやがて言った。「ガレージにあるEK9だ。久しぶりに見に行った」
「どうだった」
「動いてた」
「動いてた?」涼は少し驚いた。「エンジンかけたのか」
「かけた。修復してから一度もかけてなかった。でも今夜、かけたくなって」オオタは遠くを見た。「かかった。古いバッテリーだったのに、かかった。B16Bの音がした。オレのシビックと、同じ音がした」
誰も何も言わなかった。
「それだけだヨ」オオタは続けた。「ただ、それだけのことで、今夜なんかおかしくなった。走りたくて仕方なかった。もっと踏みたくて仕方なかった」
ヤマネが煙草を取り出した。火をつけた。しばらく吸ってから言った。
「そういう夜がある」静かに言った。「抑えられない夜が。ただ」
「ただ」
「一人で走るな、そういう夜は」
翌日、ミウラに電話した。
「オオタが昨夜、変だった」
「聞いてる」ミウラの声が言った。「本人から連絡が来た」
「本人から」
「今朝、早くに電話が来た。父親のEK9のエンジンをかけた話をした。それで走り方が変わってしまったと、自分でわかってると言ってた」
「自覚してるんですか」
「してるだろう」ミウラは続けた。「してるのに、止まれないと言ってた。……わかってて止まれない、というのが、一番厄介だ」
「どうすればいいですか」
「一緒にいることだ」ミウラは繰り返した。「止める言葉はない。ただ、一人にするな」
三日後の夜だった。
オオタから短いメッセージが来た。
「今夜走る」
「一緒に行く」涼はすぐに返した。
「来なくていい」
「行く」
返事がなかった。しかし来るなとも言われなかった。
大黒PAに向かった。
オオタのシビックが、すでに出ていた。
涼は後を追った。
湾岸に入ると、前方に白いボディがあった。
ペースが高かった。
涼はターボを踏んだ。K20Aが唸り、タービンが効き始めた。追いついた。シビックの後ろについた。
オオタのペースが、さらに上がった。
B16Bが高回転まで回っていた。コーナーへの入り方が、昨夜よりさらに深かった。壁との距離が際どかった。しかし乱れていなかった。速度が上がっているのに、ラインが乱れなかった。
それが、逆に怖かった。
乱れるなら、限界が見える。乱れないまま上がっていく時、限界がどこにあるかわからない。
「オオタ」無線で言った。
返事がなかった。
「聞こえてるか」
「聞こえてる」
「ペースを落とせ」
「落とせない」
落とせない。止まれない、ではなかった。落とせない、と言った。
「なぜだ」
返事が来なかった。
長い右コーナーに入った。
オオタのシビックが、コーナーの奥に突っ込んだ。涼の目から見て、明らかに深かった。あそこまで入ったら、立ち上がりで壁に近くなる。
タイヤが鳴いた。
シビックのリアが、一瞬だけ流れた。
流れた、が、オオタが立て直した。ハンドルを修正した。アクセルを踏んだ。シビックが、コーナーを抜けた。
壁には届かなかった。
涼の心臓は、コーナーを抜けてからも速く動いていた。
「今のは」涼は無線で言った。
「わかってる」オオタが返した。
「わかってるなら」
「わかってても、踏んでた。踏まずにいられなかった」
涼は何も言えなかった。
大黒PAに戻ると、二人しばらく黙っていた。
オオタが先に口を開いた。
「父親は、こういう気持ちで走っていたのかもしれない」静かに言った。「止まれない夜が、あったのかもしれない。それがわかった気がして」
「それがわかって、どうするんだ」
「わからない」オオタは夜空を見た。「ただ、わかりたかった。父親の気持ちを、わかりたかった」
「わかったか」
「少しだけ」
涼はオオタを見た。疲れた顔をしていた。走り終えた疲れではなく、何か深いところから消耗している顔だった。
「今夜はもう走るな」涼は言った。
「走らない」オオタは頷いた。「今夜はもういい。……来てくれてよかった」
「一人にするなとミウラさんに言われた」
「そうか」オオタは少し笑った。「あの人は、いつも正しいことを言う」
二台が並んで停まっていた。
白いシビックのボディに、照明の光が当たっていた。B16Bのエンジンが、静かに冷えていった。
涼はその音を聞きながら、何かが近づいているという感覚が、昨日より強くなっていることに気づいていた。
近づいている。
止められない何かが、近づいている。
しかし今夜は、ここにいた。一人にしなかった。それだけが、今夜涼にできたことの全部だった。




