第四十章 嵐の前
ターボが、身体に入り始めた。
入り始めた、とわかったのは、迷わなくなったからではなかった。迷う場所が変わったからだった。
以前はタービンが効き始めるタイミングで迷っていた。今はタービンが効いた後、どこまで踏み続けるかで迷っていた。迷う場所が奥に移った。それが進んだ証拠だった。
ミウラに報告すると、短く言った。
「いい。そのまま走れ」
カガワから連絡が来たのは、シビックが入庫して四日後だった。
「走らないか」
珍しかった。ROVERSのリーダーから直接の誘いは初めてだった。
「行きます」
R50イタルデザインと走るのは初めてだった。ゲート前で並んだ時、その車体の低さに改めて気づいた。存在感が違った。世界に五十台という希少性より、この道を走るために存在しているような佇まいが、違った。
「ターボが入ったか」カガワはインテグラを一瞥して言った。
「先月入れました」
「音が変わってる」カガワは続けた。「走ってみればわかる」
走り出して、カガワの速さの種類がわかった。
シノザキとは違った。シノザキはR35のパワーを計算して使う。カガワは違う。R50のパワーを、ほとんど本能で使っていた。計算している様子がなかった。考えてからハンドルを切るのではなく、見えた瞬間に身体が動いていた。
長く走ってきた人間の走り方だった。
涼は後ろからついた。
ターボが効いた直線で、R50との差が縮まった。カガワのラインを読んだ。コーナーの入り口で、内側に飛び込んだ。
並んだ。
一瞬だけ、R50の横にインテグラがいた。
次の直線でカガワが前に出た。しかし大きな差ではなかった。
走り終えて、カガワが言った。
「ターボ、まだ怖いか」
「まだ少し」
「それでいいヨ」カガワは続けた。「あのパワーを怖いと思わなくなった時、一番危ない」
「怖さが安全装置ですか」
「そうだヨ」カガワは頷いた。「怖さを持ったまま踏める人間が、本当に速い人間だ。怖さがなくなったら、それは無謀だ。速さじゃない」
ヤマネが言っていたことと、同じだった。言葉は違ったが、指しているものは同じだった。
「ナカジマさんのステージアの件、ありがとうございました」涼は言った。「モリタが来た夜の」
「ROVERSが動いたのは」カガワは少し間を置いた。「お前のためじゃない。クロスのやり方が嫌いだから動いた。それだけだ」
「わかってます」
「ただ」カガワは続けた。「お前の走りは見ている。ターボが入って、次にFitを見た時が楽しみだ」
褒めているのかどうか、やはりわからなかった。しかしカガワが楽しみだと言った。それだけで十分だった。
「シノザキとはどうなってる」涼は聞いた。
「静かだヨ」カガワは言った。「モリタが動いた件から、クロスの内部が揺れてる。シノザキがモリタを抑えた。ただ、モリタが納得してるとは思えない」
「また動きますか」
「動く」カガワはあっさり言った。「シノザキがいない時に、また動く。ただ、その時はまたROVERSが動く」
「なぜそこまでしてくれるんですか」
カガワはしばらく黙った。
「WZEBRAを知ってるからだヨ」静かに言った。「昔の話だ。詳しくは言わない。ただ、あの頃のことを知ってる人間は、クロスのやり方を見ていられない。それだけだ」
またWZEBRAの名前が出た。カガワも知っていた。シノザキも知っていた。カジワラも知っていた。ミウラも知っていた。ヨシカワたちは当事者だった。
WZEBRAという場所が、この首都高に残した傷跡の深さを、涼は改めて感じた。
二週間が経った。
ターボが、ほぼ完全に身体に入った。
迷いが消えた、ということではなかった。迷う時間が短くなった。コーナーの奥でアクセルを踏む瞬間の判断が、考える前に出てくるようになった。
考える前に出てくる。それが、身体に入った状態だった。
ヤマネが言った。
「別の車みたいだナ」
「インテグラがですか」
「お前がだヨ」ヤマネは煙草を吸った。「ターボが入ってから、走り方の密度が変わった。以前は路面を読みながら走ってた。今は路面と話しながら走ってる」
「違いがありますか」
「全然違う」ヤマネは続けた。「読むのは一方通行だ。情報を受け取るだけだ。話すのは双方向だ。路面から来る情報に、アクセルとハンドルで返事をしてる。その往復が速くなった」
涼はその言葉を、走りながら反芻した。
路面と話す。
確かに、そういう感覚が出てきていた。路面の声が聞こえる、とミウラは言っていた。聞こえるだけではなく、答えられるようになってきた。
ミウラから連絡が来たのは、三週目の終わりだった。
「シビックが上がりそうだ。来週中には出せる」
「B16Bはどうですか」
「いいよ」ミウラは静かに言った。「丁寧に組んだ。父親のシビックと同じ型番だが、精度が違う。オーナーが生きていた頃のエンジンより、ずっと丁寧に仕上げた」
「オオタに言いましたか」
「言った」少し間があった。「あいつは黙って聞いてた。それから、ありがとうございます、と言った」
「ミウラさんは」
「どうもしてない」ミウラはあっさり言った。「仕事をしただけだ。ただ」
「ただ」
「この仕事は、普通の仕事じゃなかった。B16Bを組みながら、何度か止まった。止まって、考えた」
「何を」
「あいつが向かっている先のことを」ミウラは続けた。「父親と同じ心臓を積んで、父親が見ていた景色を見ようとしている。それが、どこに繋がるのかを」
涼は何も言えなかった。
「答えは出なかった」ミウラは言った。「だから丁寧に組んだ。それしかできなかった」
オオタからメッセージが来たのは、入庫から三週間と二日後だった。
「明日、上がる」
「わかった」
「久しぶりに走ろう」
「走ろう」
翌日の夜、ミウラのショップに二人で行った。
シビックが出ていた。
チャンピオンシップホワイトのボディ。足回りが仕上がっている。そしてエンジンルームに、B16Bが積まれていた。
オオタがエンジンルームを覗き込んだ。しばらく、黙って見ていた。
「どうだ」ミウラが言った。
「父親のと、同じだ」オオタは静かに言った。「見た目が、同じだ」
「型番は同じだ。ただ中身は別物だ。もっと精度が高い」
「わかってる」オオタはエンジンルームから顔を上げた。「ありがとうございます」
ミウラは頷いた。それだけだった。
大黒PAに移動して、二台を並べた。
ミッドナイトブルーのインテグラと、チャンピオンシップホワイトのシビック。
しばらく、エンジンをかけたまま停まっていた。
オオタがB16Bのアイドリング音を聞いていた。涼も聞いていた。
「どうだ」涼は言った。
「滑らかだ」オオタは答えた。「ミウラさんの言ってた通り、以前とは回り方が違う。均一に回ってる」
「怖い感じがするか」
「しない」オオタは少し間を置いた。「むしろ、懐かしい感じがする。変な話だけど」
「懐かしい」
「助手席に乗った時の感じが、少し戻ってきた気がして」オオタは遠くを見た。「父親のシビックの助手席。中学の時に乗った、あの夜の感じが」
涼はその言葉を、静かに受け取った。
B16Bが、オオタに父親の記憶を返していた。ミウラが丁寧に組んだエンジンが、過去と今を繋いでいた。
「走ろうか」涼は言った。
「走ろう」
その夜の走りは、静かだった。
激しくなかった。以前のような、限界を削るような走り方ではなかった。
B16Bの音に耳を傾けながら、オオタは丁寧に走っていた。
涼もそれに合わせた。ターボを全開にせず、K20Aの自然吸気域で走った。二台が、同じペースで首都高を流した。
湾岸の長い直線に入った時、前方に黒いボディがあった。
一瞬だけ、涼の心臓が跳ねた。
しかし違った。タクシーだった。速度が普通だった。Fitではなかった。
「考えすぎか」
そのまま流した。
今夜はFitを追いかける夜ではなかった。B16Bがオオタの身体に入るための夜だった。
大黒に戻ると、オオタが言った。
「いいエンジンだ」
「そうか」
「ミウラさんに感謝してる」オオタは続けた。「止めなかった。理由を話したら、わかったと言ってくれた。こんなにちゃんと組んでくれた」
「ミウラさんはそういう人だ」
「そうだな」オオタは夜空を見上げた。「次にFitを見たら、追いかける。今度こそ、父親が見ていたものを見たい」
涼は頷いた。
「一緒に追いかけよう」
「ああ」
二台が並んで停まっていた。白と青。B16BとK20Aターボ。二つの心臓が、夜の大黒PAで静かに回り続けていた。
その夜はそれだけで、十分だった。
しかし涼には、何かが近づいている気がした。
近づいている、という感覚が、なぜかあった。いいことなのか、悪いことなのかはわからなかった。ただ、何かが動いていた。この首都高の空気が、少しだけ変わっていた。
インテグラのエンジンを切った。
夜が、静かになった。




