第三十九章 慣らし
怖かった。
最初のコーナーで、怖いと思った。
アクセルを踏んだ瞬間、タービンが効き始めた。K20Aだけの時とは別物のトルクが、ボディを引っ張る。身体が後ろに引かれた。シートが背中に押しつけてくる圧が、以前の二倍近かった。
反射的にアクセルを緩めた。
緩めた自分を、すぐに認識した。怖くて緩めた。緩めたことは正しかった。しかしどこまで踏めるか、まだわかっていなかった。
ミウラの言葉が戻ってきた。
怖い感じがしてる間は、正しい乗り方ができてる。
わかった。わかっていて、怖かった。
湾岸の長い直線に入った。
アクセルを、少しずつ踏んだ。
タービンが回り始める回転数がある。そこに達した瞬間、背中への圧が変わった。K20Aのトルクの上に、ターボのブーストが乗った。別の次元の加速が始まった。
速度計の針が上がった。
上がった、というより、飛んだ。
「……速い」
声が出た。
速い。これは速い。以前のK20Aとは、根本から違う加速だった。直線の中程で、すでにK20Aの全開に近い速度域に達していた。しかしメーターはまだ上を向いていた。
怖くて、アクセルを戻した。
戻してから、笑いそうになった。全開にする前に戻した。まだ全開にする勇気がなかった。
大黒PAに一度戻った。
エンジンを切って、少し考えた。
ターボというのは、面白い仕組みだ。排気ガスでタービンを回して、吸気を圧縮する。エンジンが自分の排気を使って、自分をより強くする。NAのエンジンが自分だけの力で走るのに対して、ターボは仕組みの力を借りる。
その分、扱い方が変わる。
タービンが効き始めるまでの回転域と、効き始めた後の回転域で、車の性格が変わる。その切り替わりを、身体に入れる必要があった。
切り替わりのタイミングを覚える。
それが、まず最初にやることだった。
走り込んだ。
何本も走った。
タービンが効き始める回転数を覚えた。効き始める前のアクセルの入れ方と、効き始めた後の入れ方を、少しずつ変えた。コーナーの立ち上がりで、タービンが効く前にアクセルを入れて、効き始めた瞬間に追加で踏む。その二段階の踏み方が、少しずつ馴染んできた。
補強が入ったボディから、路面の情報が増えて届いた。ミウラが言っていた通りだった。剛性が上がった分、アスファルトの継ぎ目が、タイヤのグリップの変化が、以前より鮮明に手に伝わってきた。
重くなったのではなかった。
聞こえる声が、増えた。
三日後、オオタと走った。
オオタのシビックが前に出た。コーナーのたびに差がついた。涼はまだターボに慣れていなかった。タービンが効き始めるタイミングを迷う場面があった。その迷いが、コンマ何秒かのロスになっていた。
大黒に戻ると、オオタが先に降りていた。
「ターボ、まだ馴染んでないな」
「馴染んでない。直線の速度域は別物だけど、コーナーでまだ迷ってる」
「迷ってるのがわかった」オオタは続けた。「踏み始めのタイミングが、二種類混在してた。NAの踏み方とターボの踏み方が、コーナーごとに違ってた」
「気づいてたか」
「後ろから見てたからな」
涼はその指摘を、素直に受け取った。後ろから走っていたオオタの目が、涼の迷いを拾っていた。
「足回りが変わったのに、速度域は上がってる」オオタは続けた。「K20Aだけの時より、直線での加速が全然違う。慣れたら、相当になる」
「慣れるまで時間がかかる」
「かかっていい」オオタは短く言った。「焦って慣れようとすると、変な癖がつく。時間をかけて入れた方がいい」
その言葉が、以前のオオタとは違った。以前なら、早く速くなれと言いそうな言い方をした。今は、時間をかけろと言っていた。
「ミウラさんのおかげか」涼は言った。
「かもしれない」オオタは少し笑った。
一週間が経った。
ターボの扱い方が、少しずつ身体に入ってきた。
コーナーの立ち上がりで、タービンが効き始めるタイミングを予測して踏めるようになった。効き始めた瞬間の追加のトルクを、身体が待てるようになった。待てるようになった分、アクセルの踏み方が滑らかになった。
オオタとの差が、縮まった。
縮まった、という感覚は正確ではなかった。ターボが乗り始めた直線での速度域が別物になっていたから、コーナーで少し遅れても直線で取り返せるようになっていた。バランスが変わった、という方が正確だった。
その夜、オオタに並んだ。
湾岸の長い右コーナーで、並んだ。コーナーの奥でK20Aのトルクを使って、立ち上がりでタービンが効いた。シビックの横に、インテグラが入った。
オオタが前を見ていた。
涼も前を見た。
二台が、コーナーを並んで抜けた。
大黒に戻って、ヤマネが待っていた。
「速くなったな」煙草に火をつけながら言った。「ターボが入ったのは見ればわかる。ただ」
「ただ」
「扱いが上手くなってる」ヤマネは続けた。「ターボを積んで暴れてる奴をよく見る。お前は暴れていない。ちゃんと路面に乗せてる」
「ミウラさんのセッティングのおかげです」
「セッティングだけじゃないヨ」ヤマネはあっさり言った。「乗り手がターボを理解してないと、どんなセッティングでも暴れる。お前はわかってる。踏むタイミングを、ちゃんと理解してる」
「まだ迷う場面があります」
「あっていい。迷いながら覚えていくんだヨ。迷いがなくなった時、本当に身体に入った時だ」
その夜の帰り道だった。
オオタからメッセージが来た。
走り終えた後の時間帯だった。深夜の三時を過ぎていた。
「ミウラさんと話した。次のエンジンを決めた」
「何を積む」
少し間があった。
「B16B」
涼は少し止まった。
B16B。EK9型シビックタイプRの心臓。オオタが乗っているのはEK9だ。純正のエンジンに戻る、ということではない。B16Bはオオタのシビックに積まれているエンジンとは別物だった。
「今のエンジンとは違うのか」
「今のはB18C改だ。B16Bはシビックの純正だが、ミウラさんが全部組み直す。限界まで引き出したB16Bを積む」
「なぜB16Bにするんですか」
返信まで、少し間があった。
「親父のシビックと、同じ心臓にしたかった」
涼はその言葉を、しばらく転がした。
父親のEK9と、同じ型番のエンジン。限界まで引き出したB16Bを積んで走る。父親が見ていた景色まで行きたい、と言っていた言葉が戻ってきた。
「ミウラさんはなんと言ってた」
「止めなかった」オオタは返した。「理由を話したら、黙って聞いてくれた。それから、わかった、と言ってくれた」
「いつ入庫する」
「来週だ。お前のターボが上がってから入れる、と決めてた」
「待っていてくれたのか」
「ターボが上がる前に入庫したら、しばらく二台同時に走れなくなる。それは嫌だった」
涼はスマートフォンを持ったまま、夜空を見上げた。
オオタが変わっていた。以前は自分だけで決めて、自分だけで動いた。今は涼のことを考えた上で、タイミングを決めていた。
「わかった」涼は返した。「入庫したら、また観る側に回る」
「今度は代車で来るなよ」
「軽自動車で来る」
「来るんかい」
短いやり取りで、会話が終わった。
翌週、シビックが入庫した。
ミウラのショップに二台が並んだ。涼のインテグラと、オオタのシビック。並んで停まっていた。
ミウラがシビックのエンジンルームを開けた。
しばらく見ていた。
「B16Bを積む理由、聞いた」ミウラは涼に言った。「お前は知ってるか」
「聞きました」
「そうか」ミウラはエンジンルームから顔を上げた。「止めなかった。止める理由がなかった。あいつが向かっている方向は、間違っていない」
「速さへの、ということですか」
「それだけじゃない」ミウラは静かに言った。「父親が見ていたものを、自分も見ようとしてる。それは正しい動機だ。間違った動機じゃない」
「ただ」涼は言った。
「ただ、と言いたいのか」
「言いたいです」
ミウラは工具を手に取った。
「ただ、間違った動機じゃないものが、正しい結果に繋がるとは限らない」涼は続けた。「それが怖い」
「怖いか」
「怖いです」
「怖いと思う人間が側にいることが、一番だ」ミウラは言った。「止める言葉はない。ただ、側にいる人間がいる。それだけで、少し変わる。少しだけ、だけど」
シビックのエンジンが、最後の音を立てて切られた。
入庫した。
また観る側の時間が始まる。しかし今回は前回と違った。前回は自分のインテグラがなかった。今回はある。ターボが乗ったインテグラで、観ながら走れる。
オオタのシビックが戻るまでの間に、ターボを完全に身体に入れる。
それが今、涼にできることの全部だった。




