第三十八章 空白の一ヶ月
代車は、また軽自動車だった。
「すまん、R2しか用意できなかった」
ミウラが申し訳なさそうに鍵を渡した。涼は笑って受け取った。走る気にはなれない車だったが、移動はできた。それで十分だった。
大黒PAには来た。
来て、他の連中が走るのを見ていた。前回と同じだった。しかし前回と違うのは、見方が変わっていることだった。以前は自分が走れないことへの焦りが、どこかにあった。今回はなかった。
見ることで、見えるものがあった。
それがわかっていたから、焦らなかった。
オオタがミウラのショップに行ったのは、インテグラが入庫した翌週だった。
涼は後から聞いた。
「ミウラさんのところ、行ってきた」
「どうだった」
「シビックを全部見てもらった。今度は最初から見せた」
「何か言われたか」
「足が限界に近いって」オオタは言った。「エンジンより足が先に逝く、って。ミウラさんに足を全部見直してもらうことにした」
「よかった」
「それと」オオタは少し間を置いた。「次のエンジンの話をした」
「何を積む」
「まだ決めてない。ミウラさんがいくつか案を出してくれた。時間をかけて考える」
以前のオオタとは違う言葉だった。以前なら自分で決めて、自分で動いた。今は相談して、時間をかけて考えると言っている。
命日の夜から、何かが変わっていた。
ヤマネに会ったのは、その週の金曜だった。
フェンダーの修理跡が、夜の照明の下で少し光っていた。
「オオタが変わってきた気がします」涼は言った。
「そうだナ」ヤマネは煙草を吸った。「ただ」
「ただ」
「変わったのか、落ち着いたのかは、まだわからないヨ」ヤマネは続けた。「あいつの中にある何かは、消えてはいない。おとなしくなってるだけかもしれない」
「おとなしくなることは、悪いことじゃないですよね」
「悪くないヨ」ヤマネはあっさり言った。「ただ、おとなしくなった分だけ、次に動く時のエネルギーが溜まってる可能性がある。バネを押さえつけてるだけなら、手を離した時に大きく弾む」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
「どうすればいいですか」
「一緒にいることだヨ」ヤマネは煙草を踏み消した。「それしかない。ターボが上がったら、また一緒に走れ。それだけだ」
松田から連絡が来たのは、三週目に入った頃だった。
「SVXで走っていたら、またついてきました」
「残光ですか」
「たぶん。音が同じでした。風切り音が先に来る感じ」松田は続けた。「今回は少し長かった。三つのコーナーを、ずっと後ろにいた」
「どこで消えましたか」
「分岐のところで。そのまま直進したら、後ろにいなくなってた」
涼はその話を聞きながら、頭の中で整理した。
残光がSVXについていく。WZEBRAのステッカーを持つ二台が、同じ道を走る。偶然の回数が、多すぎた。
「ヨシカワさんに伝えましたか」
「伝えました。ヨシカワさんも不思議そうな顔をしてました。ただ」
「ただ」
「嫌な感じはしないんです」松田は言った。「後ろにいる間、怖くなかった。なんか、守られてるみたいな感じがして」
守られてるみたいな感じ。
白石が手紙に書いた一行が、また戻ってきた。走り続ける限り、消えない。SVXが走っている限り、白石の何かがそこにある。そしてWZEBRAのデモカーは、同じステッカーを持つ車に引き寄せられる。
説明はできなかった。しかし、そういうことなのかもしれなかった。
四週目に入った。
ミウラから進捗が来た。
「ターボの組み付けが終わった。今週中にセッティングを出す」
「どうですか」
「悪くない」ミウラは続けた。「ただ、乗り方がまた変わる。K20Aにターボが加わると、トルクの出方が別物になる。NAの時の乗り方をそのまま持ち込むな」
「わかりました」
「それと」ミウラは少し間を置いた。「補強を入れたから、車体の感触も変わってる。最初は重く感じるかもしれない。重くなってるんじゃなくて、剛性が上がったから伝わる情報が増えてる。それだけだ」
伝わる情報が増える。
路面の声が、より鮮明に聞こえるようになる。
ミウラの言葉は、技術の話をしているようで、毎回別の何かを言っている気がした。
ミウラから「上がった」と連絡が来る前夜、オオタからメッセージが来た。
「今夜、一人で走る」
涼は少し考えた。命日ではなかった。特別な日でもなかった。しかし何か引っかかった。
「どこに行く」
「湾岸」
「わかった」
ついていくとは言わなかった。来るなとも言われなかった。
しかし涼は、代車の軽自動車で大黒PAに向かった。走れなくてもよかった。そこにいたかった。
深夜の一時を過ぎた頃、シビックが戻ってきた。
白いボディが照明の下に入ってきた。涼が近づくと、オオタが降りてきた。
表情は読めなかった。しかし使い切った顔ではなかった。何かを考えている顔だった。
「来てたのか」
「来てた」
「代車で」
「代車で」
オオタは少し笑った。
「どうだった」涼は聞いた。
「速かった」オオタは言った。「今夜は調子がよかった。シビックも、足を直してもらってから別物だ」
「ミウラさんの仕事だ」
「そうだな」オオタはシビックを見た。「走りながら考えてた」
「何を」
「父親のことを」オオタは続けた。「命日じゃないのに、走ってたら思い出した。あの人はこの道で死んだ。同じ道を今夜走った。ただそれだけなのに、なぜか今夜は違う感じがした」
「違う、というのは」
「遠くなった気がした」オオタは静かに言った。「父親の死が。以前は走るたびに近かった。すぐそこにある感じがしてた。今夜は、少し遠くなってた」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
遠くなった。
それは前進だと思った。オオタにとって、父親の死から少しだけ離れることができた夜だったのかもしれない。
「それは」涼は言った。「いいことだと思う」
「そうかな」オオタは遠くを見た。「そうかもしれない。ただ、遠くなった分だけ、また近づきたくなる気もしてる」
「近づきたくなる」
「父親が死んだ理由を、まだわかってないから」オオタは続けた。「わかりたい。あの人が最後に見ていたものを、見たい。それは変わってない」
涼は黙って聞いていた。
「黒いFitを追いかけてたから、あそこで死んだ」オオタは言った。「だとすれば、オレもFitを追いかけて、同じ場所まで行けば、わかるかもしれない」
「同じ場所まで行く、というのは」
「死ぬ、ということじゃないヨ」オオタは涼を見た。「ただ、同じ速度域まで行く、ということだ。親父が見ていた景色まで、行きたい」
涼はその言葉を、転がした。
同じ速度域まで行く。父親が見ていた景色まで行く。それは追いかけることを続ける、という意味だった。死に向かっているわけではない。しかしどこかで、境界線が見えにくくなる場所に向かっている気もした。
「一緒に行こう」涼は言った。
「一緒に」
「ターボが上がったら、一緒に追いかけよう。お前一人で行く必要はない。一緒に行って、一緒に見よう」
オオタはしばらく黙った。
「そうだな」やがて言った。「そうしよう」
翌朝、ミウラから連絡が来た。
「上がった」
「行きます」
「来い。ただ、最初は慎重に乗れ。新しい心臓は、まだお前を知らない。お前もまだあの心臓を知らない。少しずつ、お互いを知っていけ」
ショップに着いた。
インテグラが作業台の前に出ていた。エンジンフードが閉まっていた。以前より、フロントが少し重そうに見えた。ターボの重量と補強の重量が、車体に乗っていた。
エンジンをかけた。
音が変わっていた。
K20Aの音は知っていた。これは違った。低回転は静かだった。しかしアクセルを少し踏むと、背後に何かが控えているような圧があった。タービンが回り始める前の、静かな圧。
「どうだ」ミウラが後ろから言った。
「怖い感じがします」
「そうだ」ミウラは言った。「怖い感じがしてる間は、正しい乗り方ができてる。怖くなくなった時が、慣れてきた時だ」
涼はアクセルを少し踏んだ。
タービンが、静かに動き始めた。




