第三十七章 次のステージ
ショップに着いたのは、翌日の午後だった。
ミウラはリフトの下で作業していた。涼が入ってきても顔を上げなかった。作業が一段落するまで、涼は黙って待った。
やがてミウラが出てきた。手を拭きながら、珈琲を二つ用意した。
「並んだ話を聞かせろ」
涼は昨夜の感覚を、できるだけ正確に言葉にした。直線での詰まり方。コーナーでの距離感。並んだ時間。そしてFitが本気を出した後の速度差。
ミウラは黙って聞いていた。
「Fitが本気を出した時の加速の感じを、もう少し詳しく言えるか」
「タービンじゃない感じがしました。ただK20Aを全開にした状態を、あっさり超えていった。急じゃなかった。ただ確実に、上があった」
「上があった、か」ミウラは珈琲を置いた。「NAでそれをやるには、相当のエンジンが要る。改造の度合いも、相当だ」
「Fitのエンジンは何だと思いますか」
「わからない」ミウラはあっさり言った。「ただ、あれだけの速度域をNAで出すなら、ベースがどんなエンジンであれ、根本から作り直してるはずだ。市販車のエンジンの話じゃなくなってる」
涼はその言葉を、頭の中で転がした。
「オレのインテグラで、次のステージに行くには何が要りますか」
ミウラは少し間を置いた。
「K20Aにターボを積む」静かに言った。
涼は少し驚いた。
DC2にターボ。NAのインテグラにターボを積む。それがどういうことか、考えた。
「シャシーが持ちますか」
「補強が要る」ミウラは続けた。「ロールケージを入れる。サブフレームを強化する。それをやった上で、K20Aにターボを組む」
「馬力はどのくらいになりますか」
「セッティング次第だ。ただ、今のK20Aの二倍近くは狙える」
二倍。涼はその数字を、しばらく転がした。
「足回りも変えますか」
「変える。ターボが入れば重量配分が変わる。今の足ではターボのトルクを受け止められない」
「時間はどのくらいかかりますか」
「一ヶ月はかかる」ミウラは言った。「補強をやって、ターボを組んで、セッティングを出す。焦って出しても意味がない。ちゃんとやれば一ヶ月だ」
一ヶ月、走れない。
走れないが、仕方なかった。
「お願いします」
ミウラは頷いた。それだけだった。
珈琲を飲み終えた頃、ミウラが別のことを言った。
「オオタのことだが」
涼は少し待った。
「シビックを先月見た時より、走り込んでるな。タイヤの減り方を見るとわかる」
「速くなってます」
「速くなってる」ミウラは繰り返した。「ただ、速くなり方が」少し間を置いた。「限界の内側じゃなくて、限界のギリギリを走ってる。直してからそれをやってるのか、と思うと」
「何かしてやれることがあるか、ずっと考えてます」
「ない」ミウラは静かに言った。「あいつの中にあるものは、外から触れる場所にない。それは前に言った。今も変わらない」
「ヤマネさんは、一緒に走ることで引っ張れると言っていました」
「そうだな」ミウラは頷いた。「それが一番だ。お前が速くなれば、オオタはお前を追いかける。追いかける対象がある間は、こっち側にいる」
「一ヶ月、走れなくなります」
ミウラは少し間を置いた。
「わかってる」静かに言った。「だから今夜、オオタと走っておけ。インテグラが入庫する前に」
その夜、オオタに連絡した。
「インテグラ、明日から入庫する。ターボを組む」
少し間があった。
「ターボか」
「一ヶ月かかる」
「そうか」オオタは続けた。「今夜走るか」
「走ろう」
大黒PAで落ち合った。
シビックが停まっていた。チャンピオンシップホワイトのボディが、照明の下で白く光っていた。タイヤを見た。ミウラが言っていた通り、減りが早かった。走り込んでいる証拠だった。
「今夜が最後か、しばらく」オオタは言った。
「一ヶ月だ」
「その間にFitが出たら」
「お前が追いかけてくれ」
オオタは少し笑った。
「一人で追えるかどうかわからないヨ」
「追えなくていい。見ておいてくれ」
「見ておく」
二人でしばらく、大黒の夜景を見ていた。湾岸の向こうに、東京の光が広がっていた。
「ターボを積んだら、どのくらい速くなる」オオタは聞いた。
「K20Aの二倍近く狙えると言ってた」
「二倍か」オオタはシビックを見た。「だとすると、お前に追いつくのが大変になるな」
「追いつけなくなるとは言ってない」
「どっちが先に黒いFitに届くか、だな」オオタは言った。冗談のように聞こえたが、本気の目をしていた。
「競争か」
「競争だヨ」オオタは短く言った。「お前がターボを積むなら、オレも何か考えなきゃいけない」
「ミウラさんに相談しろ」
「する」オオタは頷いた。「今度は最初から相談する」
その言葉が、涼には少し意外だった。以前は止められたくないと言っていた。自分でECUを書き直して、ミウラに見せなかった。それが変わっていた。
命日の夜から、何かが変わっていた。
「走ろう」涼は言った。
「走ろう」
その夜の走りは、今まで一番密度が高かった。
K20Aと新しい足回りが完全に仕上がった状態で、オオタのシビックと並んで走った。コーナーのたびに抜きつ抜かれつになった。差がない。本当に差がなかった。
湾岸の長い直線で、二台が並んだ。
ミッドナイトブルーとチャンピオンシップホワイト。深夜の首都高で、ホンダのFF二台が横に並んで走った。エンジン音が、壁に反射して重なった。
速い。
速くなった。最初に走った夜から、二人ともこんなに遠くまで来た。
コーナーが来た。二台が同時にブレーキを踏んだ。同時にコーナーに向いた。同時に立ち上がった。
誰が前でもなかった。
ただ、二台が走っていた。
大黒PAに戻ってから、二人でしばらく黙っていた。
「いい夜だった」とオオタが言った。
「いい夜だった」涼は繰り返した。
「一ヶ月、待ってる」
「待っていてくれ」
「ターボを積んで戻ってきたら、また走ろう」オオタは言った。「その時には、オレも何か変わってるかもしれない」
「どう変わる」
「わからない」オオタは少し笑った。「でも止まってはいない」
止まってはいない。
その言葉が、涼には一番の答えだった。
止まってさえいなければ、また走れる。また追いかけられる。向かう方向が見えていれば、それでいい。
「じゃあな」とオオタは言った。
「じゃあな」
シビックのエンジンがかかった。白いボディが、夜の大黒PAを出ていった。
テールランプが、遠くなって、消えた。
翌朝、インテグラをミウラのショップに預けた。
ミウラはエンジンフードを開けて、K20Aを見た。
「よく走ったな」
「よく走ってくれました」
「B18Cの時と同じことを言ってる」ミウラは少し笑った。「お前の車は、どのエンジンも正直に働くな」
「嘘をつかない車だから」
「そうだ」ミウラは頷いた。「嘘をつかない車に、嘘をつかないエンジンを積む。そういうことだ」
ショップを出た。
一ヶ月、インテグラがない。走れない夜が続く。しかしその先に、今より速いインテグラが戻ってくる。




