第三十六章 捉えた、しかし
ミウラは足回りを全部見た。
インテグラをリフトに上げて、四輪全部のサスペンションを確認した。アーム類を叩いた。ブッシュを触った。減衰力を確認した。一時間かけて、走りこんだ。
「悪くない」やがて言った。「ただ、K20Aに合わせたセッティングになってない。B18Cの時のままだ」
「換えた時に合わせなかったんですか」
「合わせた」ミウラは続けた。「ただあの時点でのK20Aに合わせた。今のお前の乗り方に合わせていない。乗り方が変わったから、足も変える必要がある」
「どこが変わりましたか、乗り方が」
「コーナーの奥でアクセルを踏むようになった」ミウラは減衰力のダイヤルを触りながら言った。「踏む場所が奥になると、フロントの荷重が残ったままアクセルが入る。その時にリアの踏ん張りが足りない。トラクションが逃げてる」
「リアのダンパーですか」
「減衰力を少し上げる。それとスプリングレートも見直す。K20Aのトルクがリアに伝わる時間が、B18Cより長い。それに耐えられるだけの足が要る」
作業が始まった。
涼はそれを隣で見ていた。ミウラの手が、迷いなく動いた。どこを触るべきかが、最初から見えているような動き方だった。
「ミウラさんは」涼は作業を見ながら言った。「Fitに乗ったことがありますか」
「ないヨ」
「あのFitがどのくらいの速さか、想像できますか」
「できない」ミウラはあっさり言った。「お前から聞いた話と、縮まり方の変化を見てるだけだ。ただ」
「ただ」
「K20Aで並ぶ直前まで行ったなら、足を変えれば届くかもしれない」ミウラは静かに言った。「届く、というのは並ぶということだ。並んだ先にどうなるかは、また別の話だ」
「並んだ先」
「あのFitのドライバーが本気を出した時の速度域に、お前のインテグラが入れるかどうか、だ。並ぶだけなら、足を変えれば今のK20Aで行ける可能性がある。ただ本気のFitに食らいつけるかは、また別次元の話だ」
涼はその言葉を、しばらく転がした。
並ぶことと、食らいつくことは、別の話だ。
「まず並びます」涼は言った。「その先は、並んでから考えます」
ミウラは少し笑った。作業中に笑うのは、珍しかった。
「それでいい」
足回りが仕上がったのは、三日後だった。
走り出した瞬間に、違いがわかった。
リアの踏ん張りが変わっていた。コーナーの奥でアクセルを踏んだ時、以前はわずかにリアが逃げる感覚があった。それが消えていた。トラクションが、路面に食い込んでいた。
立ち上がりのアクセルを、早く踏めた。
踏んだ分だけ、前に出た。
K20Aのトルクが、リアを通じて路面に伝わっていく。以前より無駄が少なかった。力が、ちゃんと地面に届いていた。
「これだ」
声が出た。
一週間、走り込んだ。
新しい足回りに、身体を合わせた。リアの踏ん張りが増した分、アクセルを入れるタイミングをさらに奥にできた。コーナーの立ち上がりで、以前より速く、以前より安定して加速できた。
オオタと走った夜、初めて差をつけた。
つけた、というより、最終コーナーで決定的に前に出て、そのまま維持した。以前はお互いに抜きつ抜かれつだった。今夜は涼が前に出たまま、戻ってこなかった。
大黒に戻ると、オオタが珍しく黙っていた。
「速くなったな」やがてオオタは言った。
「足を変えてもらった」
「足だけじゃない」オオタは続けた。「K20Aが完全に身体に入った。乗り方が、別人みたいになってる」
「そうか」
「いい意味でだヨ」オオタは少し笑った。「次にFitを見た時、届くかもしれない」
「届く気がしてる」涼は言った。「初めて、そう思ってる」
それから三日後の夜だった。
湾岸の合流で、黒いボディを見た。
今夜で四度目だった。しかし今夜は違う感覚があった。新しい足回りがある。K20Aが完全に身体に入っている。準備が、今夜は整っていた。
踏んだ。
K20Aが低回転から応えた。足回りがリアを押さえつける。トラクションが逃げない。加速が、以前より鋭かった。
Fitのテールランプが、視界に入った。
縮まっていく。
縮まっていく速度が、今夜は違った。詰まり方が早い。直線の入口で遠かった距離が、直線の半ばで半分になっていた。
「行ける」
長い右コーナーが来た。
Fitがコーナーに向いた。涼もコーナーに向いた。ブレーキング。奥まで引きつける。フロントが向く。リリース。アクセル。リアが踏ん張る。トラクションが路面に食い込む。
コーナーを抜けた。
Fitとの距離が、縮まっていた。
縮まっている。コーナーでも縮まっている。以前は直線でしか詰められなかった。今夜はコーナーでも詰まっている。
次の直線で、さらに踏んだ。
Fitのテールランプが大きくなっていく。大きくなっていく。
並んだ。
並んだ。
一瞬、頭が空白になった。
あの黒いFitと、横に並んだ。並んでいる。ミッドナイトブルーのインテグラが、黒いFitと、横に並んでいる。
窓の外に、黒いボディが見えた。コンパクトな車体。見慣れたシルエット。しかし横から見たのは、初めてだった。
一秒。
二秒。
並んでいた。
次のコーナーが来た。
涼はブレーキングを踏んだ。Fitも減速した。コーナーに入った。インテグラのフロントが向く。アクセル。リアが踏ん張る。
コーナーを抜けた。
まだ並んでいた。
「届いた」
声が出た。震えていた。震えていることに、出てから気づいた。
次の直線で、Fitが動いた。
静かだった。劇的ではなかった。ただ、加速した。
涼も踏んだ。全部踏んだ。K20Aが唸った。足回りがリアを押さえつける。これ以上はない、という出力を出した。
Fitが、前に出た。
ゆっくりではなかった。しかし急でもなかった。ただ、確実に前に出た。涼の全力の、さらに上に行った。タービンがあるわけでもない。見た目はノーマルのFitだ。しかしあの加速は、涼のK20Aを超えていた。
差が開いた。
開いていく。
涼は踏み続けた。踏み続けながら、届かないとわかっていた。しかし踏んだ。
やがてテールランプが遠くなった。
遠くなって、消えた。
速度を落とした。
惰性で走りながら、さっきの並んだ瞬間を頭の中で反復した。
横に見えた黒いボディ。コンパクトな車体。窓から見えた、あのシルエット。
届いた。確かに届いた。並んだ。
しかし本気のFitには、まだ届かなかった。並んだ瞬間に、Fitはまだ余力を残していた。その余力が解放された時、涼のK20Aでは対応できなかった。
K20Aの限界ではなかった。乗り手の問題でも、足回りの問題でもなかった。
出力が、足りなかった。
ミウラに電話した。
「並びました」
少し間があった。
「そうか」ミウラの声が、わずかに変わった。「並んだか」
「並んだ。ただ本気を出されたら、離された」
「どのくらいの速度域で離された」
涼は感覚を言葉にした。加速の種類が違った。タービンではない。しかし涼の全力を、あっさりと超えていった。
ミウラはしばらく黙っていた。
「K20Aで並べた」やがて言った。「それは本物だヨ。ただ、その先に行くには」
「エンジンですか、また」
「エンジンだヨ」ミウラは静かに言った。「K20Aでやれることは、今夜全部やった。次のステージに行く時が来た」
「何を積みますか」
「来い」ミウラは言った。「話がある。電話じゃなくて、直接したい話だ」
電話を切った後、涼はしばらく走り続けた。
並んだ。
その事実だけが、はっきりとそこにあった。一年半以上追いかけてきて、届かなかったものに、今夜並んだ。
引き離された。
確実に引き離された。あの余力は、今の涼のインテグラには対応できない。
しかし並んだ。
それで十分だった。今夜は、それで十分だった。
ミッドナイトブルーのボディが、深夜の首都高を走り続けた。
次の心臓のことを、考えながら。




