第三十五章 モリタの夜
シノザキの警告が、現実になったのは十日後だった。
最初の兆候は、大黒PAの入口で気づいた。
見慣れない車が二台、離れた場所に停まっていた。エンジンを切っていたが、人が乗っていた。涼が入ってきたタイミングで、ヘッドライトが点いた。
嫌な予感がした。
オオタに短くメッセージを打った。
「今夜、クロスがいる気がする」
既読がついた。返信は来なかった。
走り出してすぐ、後ろについてきた。
二台だった。一台はモリタのランエボ。もう一台は見たことのない白いGT-R、R33だった。前回と違うのは、前方を塞ぐ車がいないことだった。挟む形ではなく、後ろから圧力をかける形だった。
追ってくる。
速い。モリタのランエボが本気で来ていた。前回の、陣形を組んで囲む走り方ではなかった。真後ろから、真っ直ぐ追いかけてきた。
「シノザキさんの指示じゃない」
直感でわかった。
シノザキが動く時はもっと静かだ。こういう感情的な追い方はしない。モリタが一人で決めて動いている。
涼はアクセルを踏んだ。
湾岸の長い右コーナーに入った。
モリタが詰めてくる。ランエボのAWDがコーナーでトラクションを逃さない。差が縮まる。しかし涼はブレーキングを奥まで引きつけた。K20Aのトルクを、コーナーの奥で使う。インテグラのフロントが向く。アクセル。
立ち上がりで、少し差が開いた。
直線でまた詰められる。
その繰り返しが続いた。モリタは速かった。しかし今夜の涼のK20Aも、以前のB18Cとは別物だった。詰められるが、抜かれない。抜かれないまま、コーナーのたびに涼が前を維持した。
分岐の手前で、別の車が合流してきた。
黒いステージアだった。
ナカジマだ、と涼は思った。しかしROVERSに連絡した覚えはなかった。
ステージアがモリタのランエボとR33の間に割り込んだ。RB26の音が、後方から壁に反射して返ってきた。
無線が使えなかった。何が起きているかわからなかった。しかし涼は踏み続けた。
次の分岐で、涼は本線に残った。ステージアとランエボとR33が、後方でごちゃごちゃしている気配があった。
一本後ろの合流から、フォレスターのSTiが本線に入ってきた。
WZRのナカノだった。
涼の後ろについて、前後を確認するように走った。一周して、問題がないことを確認してから、合流で離れていった。
言葉は何もなかった。
動きだけで、全部だった。
大黒PAに戻ると、ヨシカワとナカジマが先に着いていた。
「連絡してないのに」涼は言った。
「してないからな」ヨシカワはあっさり言った。「ただ、今夜モリタが動くという話が入った。だから出た」
「情報はどこから」
「ROVERSからだヨ」ナカジマが口を挟んだ。「カガワさんが掴んでた。シノザキに黙ってモリタが動くって」
「カガワさんが」
「あの人はいろんなところに目がある」ナカジマは少し笑った。「詳しくは聞かない方がいい」
涼は頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないヨ」ヨシカワは言った。「向いてる方向が同じだから動いた。それだけだ」
少し経って、シノザキから連絡が来た。
「モリタが動いたか」
「動きました。ただ、助けてもらいました」
短い沈黙があった。
「そうか」シノザキは静かに言った。「モリタには話をする」
「クロス内部のことは」
「オレが決める」それだけだった。電話が切れた。
その夜遅く、走りに戻った。
一人だった。モリタの件が片付いた後の、静かな時間だった。
K20Aが温まっていた。感触が、完全に身体に入っていた。コーナーの立ち上がりで踏む場所が、迷わずに決まる。ブレーキリリースのタイミングが、自然に出てくる。
B18Cを身体に入れるのに一年半かかった。K20Aはひと月かからなかった。積み重ねてきたものが、新しいエンジンを早く受け入れさせた。
ミウラが言っていた通りだった。
積み重ねは消えない。
湾岸の直線に差し掛かった時、前方に黒いボディがあった。
三度目だった。
今夜はK20Aが完全に仕上がっている。モリタとの追いかけっこで、エンジンが温まりきっている。条件は今夜が一番いい。
踏んだ。
K20Aが低回転から応えた。加速が始まった。Fitのテールランプが視界に入った。
縮まっている。
以前より縮まっている。K20Aの加速の継続性が、直線の後半まで速度を乗せ続けた。差が詰まっていく。詰まっていく。
あと少し。
あと少しで、並べるかもしれない。
涼は手でパッシングを炊いた。
ヘッドライトを一度、点滅させた。
Fitに向けて。
挑戦の意味でも、挑発の意味でもなかった。ただ、届いた、という意思表示がしたかった。ここまで来た、と伝えたかった。
Fitのテールランプが、一瞬だけ揺れた気がした。
気のせいかもしれなかった。しかし揺れた気がした。
次の瞬間、Fitがペースを上げた。
今まで見せたことのない速度域だった。涼の全開の、さらに上に行った。テールランプが遠くなった。遠くなって、消えた。
消えるまでの時間が、以前より長かった。しかし消えた。
確実に、引き離された。
涼は速度を落として、惰性で走り続けた。
さらなるチューニングが要る。K20Aでは、まだ届かない。Fitが見せた最後のペースアップに対応するには、今の涼のインテグラではまだ足りない。
足りない場所が、はっきり見えた。
これは以前と違う「遠さ」だった。届かない、という漠然とした遠さではなく、あと何が要るかが見えている遠さだった。
ミウラに電話した。
「Fitに、またパッシングを炊きました」
少し間があった。
「どこまで詰まった」
「並ぶ直前まで。ただ最後のペースアップに対応できなかった」
「K20Aの限界か」
「エンジンというより、足が追いついていない気がします。コーナーの立ち上がりで、もう少しトラクションが欲しい」
「足か」ミウラは少し考えた。「来い。明日、時間を作る」
電話が切れた。
次が見えていた。
足りない場所が見えている。見えているということは、埋められるということだ。
涼はインテグラのヘッドライトが照らす先を見た。
Fitはまだ遠かった。しかし届く距離になっていた。届く距離まで来た。
それで十分だった。今夜は、それで十分だった。




