第三十四章 上書き
十日が経った。
K20Aが、少しずつ身体に入ってきた。
低回転からトルクが乗る感覚。踏み始めのタイミング。コーナーの立ち上がりで、アクセルを入れる場所が変わった。B18Cの時の記憶が薄れて、K20Aの感触が上書きされていった。
上書き、という言葉が正確だった。
消えたわけではなかった。B18Cで覚えたことは、K20Aの走らせ方の土台になっていた。ブレーキリリースのタイミング、コーナーへの入り方、壁との距離感。それらは変わらなかった。変わったのは、アクセルを踏む場所と、踏んだ後の車の動き方だけだった。
ミウラが言った通りだった。
エンジンが変わっても、積み重ねてきたものは消えない。
十二日目の夜、オオタと走った。
以前のペースに戻っていた。命日の夜から何かが変わったのか、走り方の落ち着きが違った。急いでいる感じが消えて、丁寧さが戻っていた。
しかしシビックは速かった。
コーナーのたびに、涼が追いかける形になった。以前はお互いに抜きつ抜かれつだったが、今夜はオオタが前にいる時間が長かった。
大黒PAに戻ると、オオタが珍しく先に口を開いた。
「K20A、馴染んできたな」
「そう見えるか」
「見える。踏み始めが変わった。コーナーの奥でもう踏んでる」
「気づいてたのか」
「ずっと気づいてたヨ」オオタは言った。「最初の頃はタイミングが遅かった。B18Cの癖が残ってた。今夜はほぼ消えてた」
「まだ違和感がある時もある」
「あって当然だ」オオタは続けた。「でも走るたびに減ってる。あと何日かしたら、完全に自分のものになる」
涼はその言葉を素直に受け取った。
ヨシカワから連絡が来たのは、翌日だった。
「白石の手紙を読んだ」
松田がミウラを通じてヨシカワに渡していた。
「何が書いてありましたか」
「長い手紙だったヨ」ヨシカワは静かに言った。「走れなくなる少し前に書いたものだと思う。WZEBRAのオーナーへの手紙だった」
「オーナーはすでに亡くなっていましたよね」
「そうだ。だから宛先が書いてなかったんだ。送れない手紙だったから」少し間があった。「内容は、ほとんどが昔の話だった。WZEBRAで走っていた頃の話。あの頃が一番楽しかったって書いてた」
「走り続ける限り消えない、という一行は」
「最後の一行だった」ヨシカワは続けた。「その前に書いてあったのは、オーナーへの言葉だった。あなたが作ったデモカーは、まだ走っているだろうか。走っているなら、それはあなたがまだここにいるということだ。走り続ける限り、消えない、って」
涼はしばらく黙った。
白石はデモカーがまだ走っていることを、知っていたのか。あるいは願っていたのか。病気で走れなくなりながら、あのインプレッサが走り続けていることを想像しながら書いた手紙だったのか。
「松田さんに伝えてもいいですか、内容を」
「伝えてくれ」ヨシカワは言った。「あの車を持ってる人間が知っておくべき話だ」
その夜、シノザキから連絡が来た。
今度もモリタ経由ではなく、直接だった。
「また走らないか」
「いつですか」
「今夜でも構わない」
珍しかった。シノザキが夜に直接連絡してくる。以前の一対一から、何かが変わった気がした。
「行きます」
ゲート前でR35を見た時、気づいたことがあった。
シノザキが、一人でいた。
以前の一対一の時も一人だったが、あの時は約束していた。今夜は突然の連絡だった。それでもクロスのメンバーを連れていない。
「エンジン換えたな」シノザキは涼のインテグラを見て言った。
「わかりますか」
「音が違う。K20Aか」
「そうです」
「なるほど」シノザキは少し考えた。「B18Cで縮まったのか、Fitに」
「縮まった末にブローしました」
「それでK20Aか」シノザキは頷いた。「理屈は通ってるヨ。ただ」
「ただ」
「K20Aで届くかどうかは、また別の話だ」シノザキは静かに言った。「あのFitがどのくらいの速度域にいるか、お前は一番知ってるだろう」
「知ってます。それでも近づいてる」
「そうだな」シノザキは珍しく、すぐに同意した。「近づいてる。それは確かだ」
走り出す前に、シノザキがもう一つ言った。
「クロスの話だが」
涼は少し待った。
「当面、お前には手を出さない。それは変わらない」シノザキは続けた。「ただ、モリタが納得していない。オレの判断に、不満を持っている」
「それを教えてくれるんですか」
「知っておいた方がいいと思った」シノザキは言った。「オレがいない時に、モリタが動く可能性がある。それだけだ」
それ以上は言わなかった。
クロスのリーダーが、自分の組織の内部を教えてくれた。その意味を、涼はすぐには整理できなかった。
「行きましょう」涼は言った。
二台がゲートを抜けた。
走りながら、涼は気づいた。
K20Aが、今夜は馴染んでいた。
完全にではない。しかし以前の違和感が、ほぼ消えていた。低回転のトルクを使う感覚が、身体に入ってきていた。コーナーの立ち上がりで、踏むタイミングが自然になっていた。
R35に対して、差は縮まらなかった。
しかし以前の一対一より、差の開き方が変わっていた。直線で離される量が、少し減っていた。K20Aの低回転トルクが、加速の継続時間を延ばしていた。
ミウラの読み通りだった。
湾岸の直線で、より長く加速し続けられる。
走り終えて、シノザキが言った。
「速くなってる」
「K20Aのおかげです」
「エンジンだけじゃないヨ」シノザキは続けた。「乗り方が変わってる。以前より、コーナーの奥でアクセルを踏んでる」
「気づいてましたか」
「走りながら気づいた。対応するのに、少し時間がかかった」シノザキは珍しく、それだけ言った。対応に時間がかかった、という言葉の重さを、涼は静かに受け取った。
「Fitを、次に見た時に追いつける気がするか」シノザキは聞いた。
「追いつける気はしません」涼は正直に言った。「ただ、次は今まで以上に詰められる気がします」
「その差は大きいヨ」シノザキは言った。「追いつける気がする奴は、たいてい追いつけない。詰められる気がする奴は、いつか届く」
なぜそう思うのか、涼は聞かなかった。
シノザキがかつてWZEBRAを知っていた、と言った夜のことを思い出した。速さそのものを追いかけていた頃の話、と言っていた。
この男にも、何かを追いかけていた時期があった。
今はそれを捨てて、別の方法で勝とうとしている。
しかしこうして一対一で走る夜だけは、何かを取り戻しているように見えた。
帰り道、湾岸を流していた時だった。
前方に、黒いボディが見えた。
速度が違った。一瞬で理解した。
「……Fit」
声が出た。
今夜は二人で走った後だった。疲れていた。K20Aはまだ完全には身体に入っていない。条件は悪かった。
しかしアクセルを踏んだ。
K20Aが応えた。
低回転からトルクが乗る。加速が始まる。以前のB18Cとは違う加速の仕方で、インテグラが前に出た。
Fitのテールランプが、視界の中にあった。
縮まっている。
縮まっている、とわかった。B18Cの時と同じように縮まっている。しかし今夜は加速の継続時間が違う。K20Aが低回転から使えるぶん、直線の中間から後半にかけても速度が乗り続けた。
差が、B18Cの時より詰まった。
詰まった。
「届く」
そう思った瞬間、Fitがペースを上げた。
上げた速度が、違った。以前に見せたペースアップと同じだった。涼の全部を超えた速度域に、あっさりと入っていった。
テールランプが遠くなった。
しかし今夜は、遠くなるまでの時間が、以前より長かった。
消えた後、涼はアクセルから足を離さないまま、しばらく走り続けた。
詰まった。B18Cの時より、明らかに詰まった。K20Aは正しい選択だった。
しかしFitはまだ遠かった。
遠いが、見えている。見えているから、追える。
「次だ」
誰に言うでもなく、涼は言った。
首都高の夜が、ミッドナイトブルーのボディを照らし続けていた。




