第三十三章 新しい感触
最初のコーナーで、戸惑った。
アクセルを踏んだ瞬間、トルクの乗り方が違った。B18Cなら回転数を上げてから出てくるパワーが、K20Aは低いところからすでに来ていた。身体がB18Cを覚えていた分、余計に違和感があった。
コーナーの立ち上がりで、踏むタイミングが早すぎた。
フロントが逃げた。
「……違う」
アクセルを緩めた。立て直した。丁寧にやり直した。
B18Cの時は、高回転まで引っ張ってからコーナーを抜ける。K20Aは違う。低回転からトルクがある分、もう少し手前から踏み始められる。タイミングが、全部ずれていた。
ミウラの言った通りだった。
最初は遅くなる。それは後退じゃない。新しい道具を身体に入れてる時間だ。
わかっていた。わかっていて、遅く感じることが、やはり気持ち悪かった。
何本か走った。
走るたびに、少しずつ馴染んできた。
低回転のトルクを、コーナーの奥で使う。踏み始めのタイミングを、以前より少し早める。それだけで、立ち上がりが変わった。アクセルを踏んでから車が動き始めるまでの時間が、B18Cより短い。
これが、K20Aの走らせ方だ。
感覚が、少しずつ上書きされていった。
B18Cの記憶が薄れていくのは、少し寂しかった。しかし新しい感触が入ってくるのは、悪くなかった。違う楽器を手に入れた感覚に近かった。音の出し方を覚え直す。しかし出せる音の幅は、広くなっている。
大黒PAに戻ると、オオタが来ていた。
シビックのそばに立って、涼が戻るのを待っていた。
「どうだった」
「まだ馴染んでない」涼は言った。「ただ、悪くない」
「音が変わった」
「K20Aだから」
オオタはインテグラのエンジン音を少し聞いていた。エンジンはまだかかったままだった。アイドリングの音が、夜の大黒PAに低く響いていた。
「明日だ」オオタは言った。
「命日が」
「ああ」
それ以上は言わなかった。涼も聞かなかった。
翌日の夜、オオタからメッセージが来た。
「走る。一人で」
涼は少し考えてから返した。
「わかった」
ついていくとは言わなかった。来るなとも言われていなかった。しかしオオタが一人で走ると言った夜に、後ろからついていくのは違う気がした。
しかし心配だった。
ヤマネに連絡した。
「オオタが一人で走ると言っています」
「知ってる」ヤマネはすでに知っていた。「毎年この時期にそうなる。去年も一人で走った」
「去年も」
「去年はまだ、今年ほど追い込んでいなかった」ヤマネは続けた。「今年は少し違う。シビックのエンジンを自分で限界まで弄って、ミウラさんに直してもらって、また走り続けてる。去年より深いところにいる」
「どうすればいいですか」
「待つしかないヨ」ヤマネは静かに言った。「あいつが戻ってきたら、いつも通りに接しろ。特別扱いするな。それが一番だ」
電話を切った後、涼はしばらくスマートフォンを持ったまま立っていた。
夜が深くなった。
大黒PAで待っていた。走りに出る気にはなれなかった。インテグラのエンジンをかけたまま、PAの端に停めて、入口の方を見ていた。
一時を過ぎた頃、シビックが戻ってきた。
白いボディが、照明の下に滑り込んだ。
オオタが降りてきた。表情は読めなかった。読めない、というより、何も乗っていない顔だった。使い切った後の顔だった。
涼は車から降りた。
「戻ったか」
「戻った」
「走れたか」
「走った」
それだけだった。涼はそれ以上聞かなかった。
二人でPAのベンチに座った。遠くでトラックが走り去る音がした。
「親父が死んだ場所を、今夜走った」オオタはやがて言った。「毎年走る。何かが変わるわけじゃない。ただ走る」
「そうか」
「今年は、少し違った」
「何が」
「怖くなかった」オオタは遠くを見た。「去年までは怖かった。あそこを通る時に、何かが来る感じがあった。今年は、なかった」
「慣れたのか」
「慣れたわけじゃない」オオタは少し考えた。「怖さの種類が変わった。場所への怖さじゃなくなった」
「何への怖さになった」
オオタはしばらく黙った。
「自分が、同じになるんじゃないかっていう怖さだヨ」静かに言った。「親父と、同じ終わり方をするんじゃないかっていう」
涼は何も言えなかった。
「わかってる」オオタは続けた。「わかってて、それでも走る。走るしかない。ただ、怖さの種類が変わったってことは、何かが変わったってことだと思う」
「変わってる」涼は言った。「走り方が変わってる。外から見てた時にわかった」
「そうか」
「滑らかになってる。以前の、壁を壊そうとする走り方じゃなくなってる」
オオタは少し間を置いた。
「ミウラさんのおかげかもしれない」やがて言った。「エンジンを直してもらいながら、ずっと話しかけられた。壊れるには壊れるワケがある。でも壊さないで速くなる方法もある、って」
「届いたか」
「届いたかどうかはわからない」オオタは言った。「ただ、走り方が変わったなら、どこかに入ったんだろうナ」
風が通り過ぎた。
深夜の大黒PAで、シビックとインテグラが並んで停まっていた。白と青。同じホンダのFF。違う心臓を積んだ二台が、夜の照明の下にあった。
「K20A、どうだ」オオタは話を変えた。
「まだ馴染んでない」
「いつ馴染む」
「走り続ければ馴染む」
「そうだな」オオタは少し笑った。「走り続ければ、大体のことは馴染む」
その笑い方が、今夜一番、昼間の顔に近かった。
涼はそれを見て、今夜ここで待っていた意味があったと思った。
「明日も走るか」涼は言った。
「走る」
「一緒に走ろう」
「ああ」オオタは頷いた。「一緒に走ろう」
二台のエンジン音が、夜の大黒PAに重なっていた。




