第三十二章 観客
走れない夜は、奇妙だった。
首都高に来る。しかし走らない。大黒PAに車を停めて、他の連中が走るのを見ている。乗ってきた車はミウラのショップの代車だった。軽自動車だった。走れなくはないが、走る気にはなれなかった。
ヤマネが隣に来て煙草に火をつけた。
「走れないのは辛いか」
「辛いです」
「そうだナ」ヤマネは煙を吐いた。「でも悪くない時間だヨ。走ってる時には見えないものが、見えるようになる」
「たとえば」
「他人の走りだヨ」ヤマネは遠くを見た。「走ってる時は自分のことで精一杯だ。観る側に回ると、全体が見える」
観ていると、確かに見えてくるものがあった。
それぞれの癖が、外から見るとよくわかった。コーナーへの入り方、ブレーキングのタイミング、立ち上がりのライン。走っている時には感じ取れない細部が、外から見ると全部見えた。
そしてオオタのシビックが、よく見えた。
速かった。速くなっていた。ミウラにエンジンを直してもらってから、走り方が変わっていた。以前の攻め込むような入り方が消えて、もっと滑らかになっていた。
しかし何かが引っかかった。
滑らかなのに、どこかで急いでいた。コーナーを丁寧に処理しながら、次のコーナーに向かう時のペースが、微妙に速すぎた。休む場所がない走り方だった。
ヤマネも見ていた。
「気づいたか」
「急いでますね」
「そうだヨ」ヤマネは短く言った。「どこかに向かおうとしてる。でも向かう先が、まだ見えてない」
走り終えたオオタが大黒に戻ってきた。
涼が近づくと、シビックのボンネットに手を置いたまま、エンジンの熱を感じるような仕草をしていた。
「外から見てた」と涼は言った。
「どうだった」
「速くなってる。でも急いでる」
オオタは少し間を置いた。否定しなかった。
「父親の命日まで、あと十日だ」
それだけだった。涼はその言葉の重さを、どこに置けばいいかわからないまま受け取った。
「走り方に出てるか」
「出てる」
「そうか」オオタはボンネットから手を離した。「止められるか」
「止められない」正直に言った。「でも、一緒にいる」
オオタは少し笑った。昼間の顔に近い笑い方だった。
「それでいい」
松田から連絡が来たのは、その翌日だった。
「SVXのことで、少し気になることがあって」
「何ですか」
「トランクを整理してたら、封筒が出てきたんです。奥の方に、ずっと入ってたやつで」松田は少し間を置いた。「白石さんの名前で書いてあった。宛先は書いてなかった。中身は、手紙みたいで」
「読みましたか」
「読んでいいものかわからなくて」松田の声が少し低くなった。「ただ、一行だけ見えてしまって」
「何と書いてありましたか」
「『走り続ける限り、消えない』って」
涼はしばらく黙った。
走り続ける限り、消えない。
WZEBRAのオーナーが言っていた言葉と、繋がる気がした。速く走ることで、何かが残る。残るものは、走り続ける限り消えない。
「ミウラさんに見せた方がいいかもしれないです」涼は言った。「白石さんのことを知っている人に」
「そうしてみます」松田は少し間を置いた。「あと、もう一つ」
「何ですか」
「昨夜、SVXで走ってたら、後ろからインプレッサがついてきて」
涼は少し止まった。
「蒼い色でしたか」
「蒼かった」松田の声が、少し変わった。「しばらく後ろにいて、次のカーブで消えた。音が、変だった。インプレッサの音じゃない気がして」
「どう変でしたか」
「静かすぎた」松田は言った。「あの速度で走ってるのに、エンジンの音があんまり聞こえなかった。風切り音だけが先に来て、エンジン音があとからついてくるような」
涼はその感覚を、頭の中で反復した。
風切り音が先に来る。WZEBRAのヨシカワが残光の話をした時に似た表現を使っていた。音が先に来る、と。
「怖かったですか」
「怖くなかった」松田は答えた。「なんか、懐かしい感じがした。変ですよね、会ったことないのに」
SVXと残光は、同じ時代に同じ場所にいた。同じWZEBRAのステッカーを持っている。松田がSVXを通じてその記憶を感じ取っているとしたら、変でも何でもなかった。
夜、大黒PAでヨシカワに会った。
WZRの集まりがあったらしく、三台のスバルが端に並んでいた。
「残光がSVXについていったという話を聞いたか」涼は聞いた。
ヨシカワは少し目を細めた。
「聞いた。松田から連絡が来た」
「どう思いますか」
「わからない」ヨシカワはあっさり言った。「ただ、白石のSVXに近づいたのは、偶然じゃない気がする。あの車には何かがある。WZEBRAのステッカーが、まだ生きてるということなのかもしれない」
「ステッカーが生きてる、というのは」
「比喩だヨ」ヨシカワは続けた。「ただ、WZEBRAのものがまだここにある。デモカーが走ってる。SVXが走ってる。廃業して十五年経っても、ここに残ってる。……オーナーが言ってた通りになってるんだヨ。速く走ることで、何かが残る、って」
フルカワが隣で頷いた。
「デモカーが今でも走ってるのが、一番その証拠だナ」フルカワは言った。「誰も乗ってないのに走ってる。残り続けてる。WZEBRAが作ったものが、WZEBRAがなくなった後も走り続けてる」
涼はその言葉を、頭の中で繰り返した。
走り続ける限り、消えない。
白石が書いた手紙の一行と、オーナーの言葉が、同じ場所を指していた。
二週間が経った。
ミウラから連絡が来た。
「上がった」
「どうですか」
「来て確かめろ」それだけだった。
ショップに着くと、インテグラが作業台の前に出ていた。エンジンフードが閉まっていた。
「かけてみろ」ミウラは言った。
キーを差した。エンジンをかけた。
音が、変わっていた。
B18Cの高回転域の澄んだ音ではなかった。もっと太く、もっと粘り気のある音だった。低回転から、トルク感がある。アイドリングの振動が、以前と違う種類の振動だった。
「どうだ」ミウラが後ろから言った。
「別の車みたいです」
「そうだ。別の心臓だからな」
涼はしばらく、その音を聞き続けた。
B18Cの音は知っていた。身体に入っていた。この音は、まだ知らない。知らないが、悪くなかった。誠実な音だった。嘘をつかない音だった。
「最初は遅く感じるかもしれない」ミウラは続けた。「慣れるまで時間がかかる。焦るな」
「わかりました」
「それと」ミウラは少し間を置いた。「今夜は遠くに行くな。近場で感触を確かめてから、少しずつ距離を延ばせ。新しいエンジンには、慣らしがいる。機械も人間も、同じだ」
涼は頷いた。
ショップのシャッターを出ると、夜の首都高が高架の上に伸びていた。
新しい心臓が、静かに回り続けていた。




