第三十一章 次の心臓
翌朝、ミウラのショップに行った。
インテグラはすでに入庫していた。エンジンフードが開いたまま、作業台の前に置かれていた。ミウラがエンジンルームを覗き込んでいた。涼が入ってきても、振り向かなかった。
しばらく黙って待った。
「見たよ」ミウラはやがて言った。エンジンルームから顔を上げないまま。「コンロッドが一本逝った。それで二番ピストンが終わった。ヘッドも歪んでる。オイルラインも詰まってる」
「全部ですか」
「全部」ミウラはやっと顔を上げた。怒った顔ではなかった。何かを確認した顔だった。「B18Cは終わりだ。直す意味がない」
涼は黙って頷いた。
「Fitを追いかけたか」
「はい」
「縮まったか」
「縮まりました」
珈琲を二つ用意して、ミウラは作業台の端に腰を下ろした。
涼も隣に座った。
「次のエンジンの話をしよう」ミウラは言った。「B18Cで縮まったなら、次は何を積むかだ」
「何がいいですか」
「何がいい、じゃない」ミウラは珈琲を飲んだ。「何が必要か、だ。お前がどこを目指してるかによって、積むべきエンジンが変わる」
「黒いFitに追いつきたい」
「それはわかってる」ミウラは続けた。「問題はFitがどのくらい速いか、だ。お前が全開でどのくらい縮まったか、それで大体わかる」
涼は昨夜の感覚を、できるだけ正確に言葉にした。距離が縮まった時間。縮まり方のペース。Fitがペースを上げた時の速度差。
ミウラは黙って聞いていた。
「……相当だな」やがて言った。「B18Cで縮まったのは事実だ。ただFitがペースを上げた後の速度差が、そのくらいあるなら」
「まだ遠いですか」
「遠い」あっさり言った。「ただ、方向は間違っていない。パワーを上げれば、もっと縮まる」
「どのくらい上げればいいですか」
「そういう話じゃない」ミウラは首を振った。「馬力の数字で追いかける話じゃない。このDC2のボディで、このシャシーで、どのくらいまで受け止められるか。そっちが先の話だ」
ミウラが紙を一枚取り出した。
エンジンのリストだった。
「候補は三つだ」ミウラはペンで指した。「一つ目、K20A。DC5インテグラタイプRの心臓だ。B18Cより新しい設計で、高回転の伸びがさらにいい。NAのままで225馬力まで狙える」
「B18Cとの違いは」
「設計思想が違う」ミウラは言った。「B18Cは回して楽しむエンジンだ。K20Aは、もっと効率を追いかけてる。i-VTECが全域でトルクを引き出す。低回転から使えるエンジンだ」
「二つ目は」
「F20C。S2000の心臓だ。9000回転まで回る。自然吸気で240馬力。ただしDC2に積むには補機類の取り回しが難しい。ミッションの選択も変わる」
「難しいというのは」
「できないわけじゃない」ミウラは言った。「時間と金がかかる、ということだ。それだけの価値があるかどうかは、お前が決める」
「三つ目は」
ミウラは少し間を置いた。
「B18Cを、積み直す」
涼は少し驚いた。
「同じエンジンですか」
「同じ型番だが、別の個体だ」ミウラは続けた。「今回ブローしたのは、限界以上を要求したからだ。エンジン自体の設計が悪かったわけじゃない。次の個体を積んで、もっと丁寧に扱えば、同じ土台でもまだ伸びしろがある」
「それは後退じゃないですか」
「後退じゃない」ミウラはあっさり言った。「道具を知ることなく道具を換えるのは、後退だ。B18Cの限界をお前はまだ全部知ってるわけじゃない。ブローしたのは限界を超えたからで、限界を把握したからじゃない」
涼はその言葉を、しばらく転がした。
「どれがいいと思いますか」涼は聞いた。
「オレが決める話じゃない」ミウラは珈琲を置いた。「ただ聞く。お前はFitに追いつく前に、もう一度あの距離まで縮めたいか。それとも次に縮めた時に、届きたいか」
「届きたいです」
「なら」ミウラは言った。「K20Aだ」
「なぜですか」
「低回転からトルクが出る分、湾岸の直線でより長く加速し続けられる」ミウラは続けた。「B18Cは高回転が美しいエンジンだ。ただ低中回転域でのトルクが細い。Fitを追いかける直線で、その細さが出る。K20Aはそこが違う」
涼は頷いた。
「もう一つある」ミウラは続けた。「K20Aに換えると、乗り方を変える必要が出る。全域でトルクが出るエンジンは、回し方のコツが変わる。最初は戸惑うかもしれない」
「慣れますか」
「慣れる。ただ時間がかかる」ミウラは言った。「その時間を、無駄と思わないことだ。エンジンが変わった時、最初は遅くなる。それは後退じゃない。新しい道具を身体に入れてる時間だ」
作業台から降りて、ミウラはインテグラに戻った。
エンジンルームをもう一度見た。
「B18C、よく働いたよ」静かに言った。エンジンに向かって言っているようだった。「お前のインテグラが正直だったのは、このエンジンが正直だったからだ。嘘をつかないエンジンだった」
涼はその言葉を、黙って聞いていた。
「次の心臓も、正直なエンジンだ」ミウラは続けた。「K20Aは嘘をつかない。ちゃんと走れば、ちゃんと応える。無理をすれば、無理だと教えてくれる。B18Cと同じだ」
「いつ上がりますか」
「二週間もあれば上げる」ミウラは言った。「その間に足のセッティングも見直す。K20Aを積んだら重量配分が少し変わる。そこも合わせる」
「よろしくお願いします」
ミウラは頷いた。それだけだった。
ショップを出る前に、一度だけインテグラを振り返った。
エンジンルームが開いたまま、静かに停まっていた。
B18Cが終わった。一年半以上、走り続けてきたエンジンが終わった。しかしインテグラは終わっていない。シャシーがある。ボディがある。ミッドナイトブルーのボディが、まだそこにある。
新しい心臓を積んで、また走り出す。
それだけの話だ、と涼は思った。
シャッターの外に出た。
昼間の首都高が、高架の上を動いていた。いつもと同じ景色だった。しかし二週間後には、別のエンジン音でこの道に戻ってくる。
涼は歩き出した。
次の心臓のことを、考えながら。




