第三十章 臨界
その夜、黒いFitは突然現れた。
湾岸線の合流だった。涼が本線に入った直後、左の車線を黒いボディが通過した。速度が違った。本線に入ったばかりの涼が、もう置いていかれそうになっていた。
反射的にシフトを落とした。
四速。アクセル。
間に合わなかった。Fitはすでに数百メートル先にいた。
「……またか」
しかし今夜は違った。
違う、と思った。一人で走り続けた一週間で変わったものがある。ミウラに直してもらったエンジンがある。ブレーキリリースのタイミングがある。全部ある。全部を使えば、今夜は違う結果になるかもしれない。
そう思った瞬間、もうアクセルは床まで踏んでいた。
五速。
B18Cが唸る。8000回転まで引っ張る。レブリミットの手前で六速に入れる。直線が続く。湾岸の長い直線。壁が遠い。視界が開けている。ここが一番速度が出る区間だ。
Fitのテールランプが、遠くにある。
縮まっている。
縮まっている、と確認できた瞬間、心臓が跳ねた。縮まっている。本当に縮まっている。今夜は違う。今夜は届くかもしれない。
「行ける」
声が出た。
六速のまま、アクセルを踏み続けた。メーターの針が上がっていく。速度が乗っていく。B18Cが高回転域で伸び続ける。このエンジンの誠実さが、全開の向こうにある。
Fitのテールランプが、大きくなってきた。
縮まっていた。
明らかに、縮まっていた。
以前は視界から消えるだけだったFitが、今夜はバックミラーではなくフロントガラスの中にいる。しかも距離が詰まっている。あと数百メートル。あと数百メートル詰めれば、並べるかもしれない。
そう思った瞬間、Fitがペースを上げた。
「くそ」
五速に落とした。回転数が跳ね上がる。また六速。アクセル。エンジンの唸りが変わった。限界に近い唸り方だった。しかし踏んだ。踏み続けた。
Fitとの距離が、また縮まった。
縮まった。今夜は縮まる。
もっと踏む。もっと引き出す。B18Cにはまだある。まだ出せる。
「まだある」
独り言が止まらなかった。
エンジンの音が変わり始めていた。変わっている、と気づいていた。気づいていて、踏み続けた。
その時だった。
音が、変わった。
変わった、という言い方では足りなかった。音の質が根本から変質した。高回転の澄んだ音ではなく、何か重たいものが内部で干渉しているような、鈍い異音が混じり始めた。
「……待て」
アクセルを緩めようとした。
緩める前に、衝撃が来た。
ハンドルを通じて、ドンという振動が伝わってきた。エンジンルームから煙が上がり始めた。油圧警告灯が点いた。水温計が振り切れた。
「……嘘だろ」
アクセルから足を離した。クラッチを踏んだ。惰性で走り続ける。エンジンに動力を伝えるのが怖かった。
煙が増えた。
ハザードを点けた。速度が落ちていく。路肩に寄せた。ガードレール際に停めた。エンジンを切った。
静かになった。
車から降りた。
エンジンフードを開けた。
煙が上がっていた。オイルの焦げる匂いがした。手をかざすと、熱かった。触れない温度だった。
暗い中で目を凝らした。
オイルが漏れていた。
コンロッドが逝ったのか、それとも腰下のどこかか。判断できなかった。判断できないくらい、内側でいくつかのことが同時に起きていた。
ミウラの言葉が戻ってきた。
チェーンの一番弱いリンクを、常に意識しろ。
わかっていた。わかっていて、踏んだ。Fitが前にいて、縮まっていて、踏まずにはいられなかった。
「……馬鹿だ」
自分に言った。
誰かに聞かせるためではなかった。ただ、そう言うしかなかった。
湾岸の夜風が通り過ぎた。遠くでトラックが走り去る音がした。前方のFitのテールランプは、もうどこにもなかった。
ロードサービスを呼んだ。
待っている間、ガードレールに背中を預けて座っていた。
エンジンが終わった。ミウラに直してもらったばかりのエンジンが、自分の手で終わらせた。どのくらいの修理代になるか、考えたくなかった。
しかしそれより先に、別のことを考えていた。
縮まっていた。
今夜、確かに縮まっていた。エンジンが終わる直前まで、Fitとの距離は詰まっていた。届かなかった。並べなかった。しかし縮まっていた。
今のエンジンで、今の自分で、縮まっていた。
だとすれば、次のエンジンで、次の自分なら。
スマートフォンを取り出した。
ミウラに電話した。深夜だった。しかし繋がった。
「ブローしました」
少し間があった。
「どこだ」
「湾岸の、ランプから二キロほど先です」
「引き取る」ミウラは短く言った。怒ってはいなかった。「明日、話をしよう」
電話が切れた。
次にオオタに電話した。
「エンジン終わらせた」
「……どこで」
「湾岸。Fitを追いかけた」
少し間があった。
「縮まったか」オオタは聞いた。
「縮まった。その先でブローした」
また間があった。
「そうか」オオタは静かに言った。「怪我は」
「ない」
「ならよかった」
「よくない」
「エンジンは直せるだろ」オオタは言った。「ブローは事実。ただ...それは進歩でもあるだろ」
涼は何も言えなかった。
「次はもっといいエンジンで行け」オオタは続けた。「今のB18Cで縮まったなら、次はもっと縮まる」
「どういうことだ」
「ミウラさんに聞け」オオタは言った。「あの人が一番よくわかってる」
電話が切れた。
ロードサービスのライトが、遠くに見え始めた。
涼はガードレールから立ち上がって、インテグラを見た。
煙はもう上がっていなかった。ただ停まっていた。一年半以上、走り続けてきた車が、静かに停まっていた。
「ありがとう」
声に出した。
誰に聞かせるでもなかった。ただそう言いたかった。この車が教えてくれたもの全部に対して、そう言いたかった。
ロードサービスのトラックが、ハザードを点けながら近づいていた。




