第二章 常連
翌日も、涼は首都高に行った。
その次の日も行った。
理由を聞かれたら答えられなかった。あの黒いFitをもう一度見たいのか、と言われれば、そうかもしれない。しかしあの速度差を見せられた後で「もう一度見たい」などというのは、虫がよすぎる話だった。追えるわけがない。勝てるわけがない。それはわかっていた。
わかっていても、ハンドルを切った。
人間というのはそういうもんだヨ───と、後になって誰かが言っていた。理屈じゃないんだ、と。見てしまったものは消えない。それだけの話だ、と。
その時の涼には、ただ「行くしかない」という感覚しかなかった。
走るたびに、少しずつ何かが変わった。
コーナーの入り方が、昨日より少しだけ自然になる。ブレーキングのタイミングが、一メートルだけ奥になる。それは数字にも出ないような小さな変化だった。しかし涼には感じ取れた。インテグラが正直に教えてくれた。
一週間が経った頃、声をかけられた。
大黒PAに車を停めて、水を飲んでいた時だった。
「何日連続だ、お前」
振り向くと、フェンダーに背中を預けた男が煙草を吸いながらこちらを見ていた。四十代に差し掛かったくらいか。作業着の上にジャンパーを羽織っている。その背後に停まっているのは、深い紫のFD3S型RX-7だった。
「……見てたんですか」
「見てたわけじゃないヨ」と男は言った。「ただ、いるナと思って。毎晩同じインテグラがいれば気づくヨ、誰でも」
男の名前はヤマネといった。それ以上のことは、最初の夜には教えてもらえなかった。
「速くなりたいのか」
「……なりたいです」
「何のために」
涼は少し考えた。「黒いFitを、追いたいんです」
ヤマネは煙草を深く吸って、吐いた。
「……見たのか、あれを」
「見ました」
「どうだった」
「話にならなかった」
ヤマネはしばらく黙っていた。何かを思い出すような顔をしていた。やがて煙草を地面で踏み消して、言った。
「走ろうか」
それが涼の、最初の本当のバトルだった。
結果は言うまでもない。
ヤマネのRX-7は涼のインテグラを相手にしなかった。コーナーのたびに差が開いた。直線で詰めようとしても追いつかない。三コーナー目で勝負は決まっていた。
それでも涼は踏み続けた。
離されながらも、踏み続けた。最後まで。
大黒PAに戻ってきた時、ヤマネは先に着いて煙草に火をつけていた。涼が車を降りると、一瞥だけしてから言った。
「下手だナ」
「……わかってます」
「ただ」とヤマネは続けた。「諦めなかったゾ、お前。離されてから一度もアクセル抜かなかった」
「抜いたら終わりだから」
「そうだヨ」とヤマネは言った。ぶっきらぼうに、しかし確かに。「そういうことだ」
それだけだった。褒められたのか、よくわからなかった。しかし何かが変わった気がした。
「お前のインテグラ」とヤマネは言った。「エアクリはどこのだ」
「純正です」
「ならまず変えろヨ。ただし箱だけ変えても意味がない。吸わせる量が変われば、吸わせるだけの燃料が要る。燃料が変われば、燃やすだけの点火が要る。車ってのはナ、一つ変えたら全部変わるんだ。チェーンの一番弱いリンクを、常に意識しろ」
「……詳しいんですね」
「長くやってるだけだヨ」とヤマネは言った。「長くやってるだけで、速いわけじゃない」
自嘲なのか、事実を言っているだけなのか、涼には判断できなかった。
その夜から、涼はインテグラを少しずつ変え始めた。
エアクリーナー。燃料系。点火系。ひとつ変えるたびに、車が変わった。変えるたびに走った。走るたびに、また変えたい場所が見えた。
金がなくなった。バイトを増やした。また金を使った。眠れない夜が増えた。
それでも楽しかった。
あの黒いFitの背中が、まだ目の奥にあった。
遠い。途方もなく遠い。しかし消えなかった。消えないから、走り続けた。
ヤマネが時々、声をかけてくる。「今度はブレーキだナ」「そのタイヤじゃ勿体ないぞ」「足を変えたなら、セッティングを合わせろ」。言葉は短い。しかし毎回、的を射ていた。
大黒PAには、少しずつ顔見知りが増えた。
みんな何かを追っていた。速さを、限界を、あるいは誰か特定の相手を。目指しているものはそれぞれ違う。しかし夜の首都高に集まってくる理由は、根っこのところで同じだった。
見てしまったから、走り続ける。
それだけだった。




