第一章 邂逅
中村涼が初めて首都高に入ったのは、二月の終わりだった。
理由は特にない。いや、正確には理由はあったが、言葉にするのが難しかった。バイトの帰りに湾岸線の入り口を通るたびに、ハンドルを切りたい衝動があった。それだけだ。特別な目標も、倒したい相手も、その時点ではまだなかった。
ただ、走りたかった。
涼の車はDC2型インテグラ タイプR。三年前に知人から格安で譲り受けた、走行距離の多い個体だった。B18Cエンジン。自然吸気の1800cc。マフラーだけ、中途半端に変えてあった。今どきのターボ車のような暴力的な加速はない。しかし回した時のフィーリングが、他の何とも違った。8000回転まで綺麗に吹け上がる。その過程に、機械が持つ種類の誠実さがあった。
嘘をつかない車だ───と涼は思っていた。うまく走れた時は正直にそれを伝えてくれるし、下手を打った時も同じだけ正直だった。
オンランプでアクセルを踏み込む。
加速する。風切り音が変わる。シートが背中を押す。
それだけで、世界が変わった。
首都高というのは、不思議な場所だ。道幅は広くない。壁が近い。カーブの多さのせいで視界が常に制限されている。普通に考えれば、速度を出すのに向いた道ではない。しかし夜の連中がここを選ぶのには、理由がある。
閉じているからだ。
外の世界と切り離された、コンクリートに囲まれた空間。ここで速度を出した時の感覚は、開けた道のそれとは根本的に違う。壁との距離が、速さを身体で教えてくれる。数字じゃなく。
涼は何周か走った。
下手だった。自分でわかった。コーナーの入り方が雑で、ブレーキングが遅い。インテグラのポテンシャルの半分も引き出せていない。それでも楽しかった。車が、路面が、速度が、すべてが新鮮だった。
そろそろ帰るか───と思い始めた頃だった。
バックミラーに、ヘッドライトが映り込んだ。
最初は気にしなかった。深夜の湾岸に走っている車など、涼だけではない。しかし何かが引っかかった。光の近づき方が、普通ではなかった。速い。明らかに速い。しかし静かだった。エンジン音が大きいわけでもなく、ただ光が、異常な速度で迫ってきていた。
黒いボディだった。
コンパクトな車体。見覚えのあるシルエット。Honda Fit───普通のファミリー向けFF、街中で掃いて捨てるほど走っている、あの車だった。
何だ、気のせいか。一瞬、笑いそうになった。
しかし、笑えなかった。
Fitは涼のインテグラを追い越した。それだけなら何でもない。しかし問題は速度。涼が停まっているかのように、Fitは通過した。
涼は加速し続けていると言うのに。追い越した、という表現すら正確ではない。存在を無視した、という方が近かった。
涼は反射的に、更にアクセルを踏んだ。
無意味だった。
黒いボディはすでに遠い。テールランプの赤い点が、みるみる夜に溶けていく。追うどころか、速度差がどれだけあるのかすら計れない。やがて赤い点は消えた。
何も残らなかった。
クラクションもない。パッシングもない。挑発すらない。ただ、通り過ぎた。
涼はしばらくの間、アクセルから足を離せなかった。
速い、という言葉では足りなかった。かっこいい、という言葉も違った。あの黒いFitが残していったのは、そういう感情じゃなかった。
もっと根っこのところに刺さる何かが、あった。
「……なんだ、あいつ」
誰に言うでもなく、涼はそう呟いた。
首都高の壁が、静かに答えを返してくる。エンジン音だけが響いていた。
あの背中だけが、目の奥に焼きついて離れなかった。黒いボディ。消えていくテールランプ。そしてあの、圧倒的な無関心。
こちらを、眼中にも置いていなかった。
それが───何よりも、効いた。




