第0章 蒼い光の話
首都高速が眠ることはない。
かつて、昼間は物流の動脈として機能し、深夜はまた別の何かとして、その道は動き続けた。コンクリートの壁と鉄骨の構造物に挟まれた、閉じた世界であった。出口を選ばなければ、そのまま東京をぐるぐると回り続けることができる。迷路のようでもあるし、檻のようでもある。
しかし夜の連中にとっては、ここは舞台だった。
速さというのは、数字じゃないんだヨ───と、ある夜、大黒PAの自販機の前で、白髪混じりの男が言った。誰に向かって言ったのかはわからない。独り言のようでもあった。
「タイムでもない。馬力でもない。……速さってのは、もっと根っこのところにある話だナ。なんでその車がその道をその速度で走れるのか。それを突き詰めると、車の話じゃなくなるんだ。人間の話になる」
話を聞いていた若い男が、少し笑った。「哲学ですね」
「哲学じゃないヨ。事実だ」
男はコーヒーの缶を握りつぶすように飲み干して、言った。
「……お前は見たことあるか。蒼い残光を」
目撃証言は、いくつかある。
湾岸エリアのランプで見た、という話が最も多い。深夜の二時から四時の間。車両の数が極端に少なくなった時間帯に、蒼いセダンが現れる。
インプレッサだ───と言う者がいる。
WRX STiだ───と言う者もいる。
セダンボディ。蒼いボディカラー。それだけが一致している。
「音が先に来るんだヨ。姿より音が先だ。水平対向のフォーのエキゾーストが、まず壁に反射して聞こえてくる。それで気づいた時には、もうバックミラーに映ってる」
「追えるか?」
「……無理だナ。速度が違いすぎる。追う、って次元じゃない。通り過ぎるんだヨ、あれは。まるでこっちが停まってるみたいに」
450km/hを超える、という話もある。
そんなのは嘘だ、という話もある。
ただ、確実なことは言えない。
───追いついた者が、居ないからだ。
インプレッサのWRX STiというのは、面白い車だ。
もともとはラリーのホモロゲーション車両として生まれた。舗装路より荒れた山道を想定した設計思想が、そのまま市販車に載った。アクティブセンターデフ。シンメトリカルAWD。低く、広く、地面を掴んで離さないような重心の低さ。
野生で生まれた血が、湾岸で走っている。
おかしな話のようだが、それがまた正しいんだナ───と、その白髪混じりの男は言った。
「速さの系譜ってのがある。どんな車にも、生まれてきたワケがある。インプレッサが首都高を走るのは、理屈では変に見える。でも速い車が速い道を走ることに、理由がいらないんだヨ。速さが速さを呼ぶ、ただそれだけだ」
男は少しだけ間を置いた。
「……逆もあるゾ。でかいエンジン積んだスポーツカーが全部速いわけじゃない。本当に怖い奴ってのは、誰も気にしないような車に乗ってたりするんだ。小さくて、軽くて、FFで、街中に掃いて捨てるほどいるような。そういう車がな……」
「……残光、見たことがあるんですか、あなたは」
男はしばらく黙っていた。
「ある」
「どうだった」
「恐怖だナ」
若い男は驚いた顔をした。そんな答えを予想していなかったのだろう。
「こっちが速く走れてると思ってた夜のことだヨ。調子が出てた。路面も悪くなかった。……そこに来たんだ。後ろから」
男は遠くを見るような目をした。
「じゃあ、ただ抜かされただけ?」
「『だけ』なんかじゃないヨ」と男は言った。静かに、しかし確かな声で。「あれはな……速さの意味が、変わる瞬間だ。自分が止まっているのか、とすら考えてしまったナ」
パーキングエリアに、遠くトラックのエンジン音が響いていた。
「それで、どうしたんですか」
「どうにもできないヨ」と男は言った。「ただ走り続けた。それしかないんだ、そーゆー時は。……でも方向が変わった。何かを追いかけるんじゃなくて、自分がどこまで行けるか、それだけになった」
蒼い残光を見た者は、変わる。
そういう話が、首都高の夜には漂っている。
それが本当なのか、都市伝説なのか、確かめた者はいない。確かめようとした者は、追いつけなかった。
ただひとつ言えることがある。
あの光を見た後で、追いかけるのをやめた奴はいない───というコトだ。
一人の例外もなく、もっと速くなろうとした。そのためにはどうすればいいか、考えた。金を使った。時間を使った。眠れない夜を何度も過ごした。
「それが正解なのか間違いなのか、オレにはわからないヨ」と白髪の男は言った。「でもな……見てしまったものは、消えないんだ。目を閉じても、そこにある。走り続ける理由が、そこにある」
空が、白み始めていた。
男はゆっくりと立ち上がり、自分の車に向かった。黒いコンパクトカーが一台、街灯の届かない端に静かに停まっていた。
若い男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
蒼い残光。
まだ見たことのないその光を、なぜか、もうずっと前から知っていたような気がした。




