第二十七章 帰還
ミウラから連絡が来たのは、入庫から十日後だった。
「シビックが上がった」
「どうでした」
「思ったより時間がかかった」少し間があった。「腰下は全部見た。ギリギリだったな。あと数回全開にしてたら、コンロッドが終わってた」
涼は何も言えなかった。
「直した。セッティングも見直した。前より速くなってるはずだ」ミウラは続けた。「オオタに言った。限界の外を走るな、と。限界の少し内側を走り続ける方が、結果的に速くなる、と」
「聞きましたか」
「聞いた」ミウラは短く言った。「聞いた、が、届いたかどうかはわからない」
シビックを受け取ったオオタから、夕方にメッセージが来た。
「今夜走る」
「待ってた」
「大黒で」
大黒PAで久しぶりに並んだシビックは、音が変わっていた。
以前の低く腹に響く音ではなかった。B18Cの高回転域の、澄んだ音に戻っていた。オオタが入庫する前の音より、さらに整っていた。ミウラが腰下を全部見直した結果だった。
「どうだ」と涼は聞いた。
「別の車みたいだ」オオタは言った。「静かすぎて、怖いくらいだ」
「怖い?」
「以前はエンジンが頑張ってる感じがあった。唸ってる感じが。……今は滑らかすぎて、どこまで回ってるかわからなくなる」
「それが正常だ」
「そうらしい」オオタは少し笑った。昼間の顔に近い笑い方だった。「ミウラさんに言われた。エンジンが主張してくる時は、どこかに無理がある、って」
走り出すと、すぐにわかった。
シビックが速くなっていた。
パワーが上がったわけではない。しかし無駄が消えていた。エンジンの回り方が均一になった分、パワーの伝わり方が変わっていた。アクセルを踏んだ時の応答が、以前より素直だった。
涼は後ろからその走りを見ながら、ミウラの仕事の意味を改めて感じた。
速くする前に、まず聞こえるようにする。路面の声が聞こえない車で踏んでも、怖いだけだ。
シビックが、路面を聞いていた。
コーナーの入り方が変わっていた。以前の攻め込むような入り方ではなく、もう少し丁寧だった。丁寧なのに、遅くなっていない。むしろ立ち上がりが速い。
オオタ自身の走り方も、少し変わっていた。
長い右コーナーで、並んだ。
インテグラとシビックが横に並ぶ。ホンダのFF同士。エンジンの系譜が近い二台が、同じコーナーを同じ速度で抜けていく。
出口で、シビックが前に出た。
涼はアクセルを踏んだ。踏み続けた。次のコーナーの入り口で、インテグラが前に出た。
また並んだ。また抜いた。また抜き返した。
以前と同じような、しかし以前より密度の高いバトルだった。
大黒に戻ると、二人しばらく黙っていた。
「速くなってる」とオオタが先に言った。「お前が」
「一人で走ってた」
「わかる。走りが変わった。一人で走ると変わる部分がある」
「シビックも速くなってる」
「ミウラさんのおかげだ」オオタは少し間を置いた。「……あの人、作業しながらずっと話しかけてくるんだよ。エンジンに向かって独り言みたいに。エンジンの話をしてるんだけど、なぜかこっちに刺さる言葉が混じってる」
「どんなことを言ってましたか」
「腰下を全部開けながら言ってた」オオタはPAの照明を見上げた。「壊れるには、壊れるワケがある、って。壊れた時には必ず、その前に兆候がある。兆候を無視して走り続ければ、壊れる。機械も、人間も、同じだって」
涼は何も言わなかった。
「わかってるヨ」オオタは続けた。「言われたことの意味は、わかってる。ただ」少し間があった。「わかってても、止まれない時があるんだ。お前にはわかるか」
「わからない」正直に言った。「でも、止まれない気持ちはわかる気がする」
「そうか」
「黒いFitを見た時、全部踏んでた。追いつけないとわかっても、踏んでた。止めろと言われても、たぶん踏んでた」
オオタはその言葉を、しばらく転がしていた。
「似てるな」やがて言った。「追いかけるものが違うだけで、似てる」
「似てる」
「お前の場合は、Fitに追いつく可能性がある」オオタは静かに言った。「だから踏み続けることに意味がある」
「オオタの場合は」
「オレの場合は」少し間があった。「どこに向かってるかが、たまにわからなくなる」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
どこに向かってるかがわからなくなる。
それは怖い言葉だった。速さを追いかけている人間が、方向を見失う。ヤマネが言っていた言葉が戻ってきた。限界の外に出た瞬間、それは速さじゃなくなる。運だけになる。
「一緒に走ろう」涼は言った。「向かう方向が、Fitでいい。二人でFitを追いかけよう。それだけでいい」
オオタは少し黙った。
「ああ」やがて言った。「そうしよう」
帰り道、涼のスマートフォンに見知らぬ番号から着信があった。
出ると、聞いたことのない声だった。
「中村涼か」
「そうですが」
「WZRだ」
涼は少し止まった。
「……どこで番号を」
「ヤマネさんから預かった」声は落ち着いていた。年齢の判断がつかない声だった。「直接話したかった。時間はあるか」
「あります」
「一つだけ聞く」声は続けた。「白石研二という名前を、お前は知っているか」
「知っています」
少し間があった。間の長さが、答えを確認するような間だった。
「会って話がしたい。場所は大黒PAで構わない。日程はお前が決めていい」
「なんの話ですか」
「WZEBRAの話だ」静かに言った。「それと、蒼い残光の話だ」
電話が切れた。
涼はしばらく、スマートフォンを持ったまま首都高の上に立っていた。
WZR。ずっと名前だけが先行していた存在が、初めて声を持った。
そしてその声は、WZEBRAと蒼い残光の話をすると言った。
カジワラも、シノザキも、ミウラも、口を閉じた場所で。




