第二十六章 一人
オオタのシビックが入庫して、最初の週は奇妙な感じがした。
大黒PAに来ても、隣にいない。走り出しても、後ろにシビックがいない。一人で走るのは別に初めてではなかった。しかしオオタと走り続けた時間が長かった分、その不在が形を持って感じられた。
ヤマネが言った。
「一人で走るのも、悪くないヨ」
「そうですか」
「誰かと走ってると、無意識に相手のペースに引っ張られる。一人だと、自分のペースだけになる。自分がどこで踏んで、どこで緩めてるか、よくわかるようになるヨ」
確かに、そうだった。
一人で走ると、自分の癖が見えた。
コーナーの入り方に、わずかなためらいがあった。以前より減っていたが、完全には消えていなかった。直線の終わりで、ブレーキングのタイミングを決める一瞬、何かが迷う。
誰かを追いかけている時は、相手のブレーキランプが判断の基準になる。一人だと、その基準がない。壁との距離と、速度計と、身体の感覚だけで決める。
最初の三日は、以前より遅かった。
四日目から、変わり始めた。
七日目の夜だった。
湾岸の長い直線に入った時、前方に黒いボディがあった。
最初は気にしなかった。しかし速度が引っかかった。前方にいる車が、縮まってこない。
涼はアクセルを踏み足した。
縮まらない。
心臓が、少し速くなった。
あの車だ。
黒いFitだ。
一人だった。オオタもいない。知らせる相手もいない。ただ、前にFitがいて、自分のインテグラがある。
踏んだ。
全部踏んだ。
以前と違ったのは、差の縮まり方だった。
縮まらない、という感覚は同じだった。しかし以前は差が開いていった。今夜は、開かなかった。一定のまま、テールランプが視界に残り続けた。
追いつけてはいない。しかし離されてもいない。
その状態が、しばらく続いた。
Fitが車線を変えた。
変えた方向に、涼も動いた。
Fitがペースを上げた。
涼もペースを上げた。
コーナーが来た。Fitがコーナーに向いた。涼もコーナーに向いた。
差は変わらなかった。
しかしコーナーを抜けた時、涼は初めて気づいたことがあった。
動きに、迷いがない。コーナーに入る前から、出口が見えているような動きだった。全体を俯瞰しながら、先の先まで読んで走っている。そういう走り方だった。
速さの種類が、違う。
パワーの話でも、グリップの話でもない。もっと根っこのところで、走り方の次元が違う。あの黒いFitのドライバーは、涼が見えている景色より、ずっと先の景色を見ながら走っている。
そう思った瞬間、Fitがペースを上げた。
上げた、という表現が正確かどうかわからなかった。今まで抑えていたものを、解放した、という感じだった。
テールランプが、遠くなった。
遠くなって、消えた。
大黒PAに入って、エンジンを切った。
しばらく、何もしなかった。
離されなかった時間が、確かにあった。あの黒いFitと同じ速度域にいた時間が、確かにあった。それは一年前には考えられなかったことだ。
しかし最後に見せられたあのペースアップは、涼の全部踏んだ状態を軽々と超えていた。
天井と地面が変わった。到達したと思ったら、新しい天井が現れた。
「……まだ、遠い」
誰もいないPAで、声が出た。
遠い。しかし以前とは遠さの種類が変わっていた。以前は、距離がわからなかった。今は、距離が見えている。見えているから、遠いとわかる。
見えるようになった、ということだ。
涼はスマートフォンを取り出して、オオタにメッセージを打った。
「今夜、Fitを見た」
少し間があってから、既読がついた。
「どうだった」
「離されなかった時間があった。でも最後に置いていかれた」
「進んでる」
「まだ遠い」
「でも進んでる」オオタは繰り返した。「シビックが戻ったら、一緒に追う」
「ああ」
「待ってろ」
それだけだった。
涼はスマートフォンを置いて、窓の外を見た。深夜の大黒PAに、何台かの車が停まっていた。みんな何かを追いかけている連中だった。
一人で走った一週間で、見えてきたものがあった。
自分の癖。自分のペースの作り方。自分がどこで迷っているか。そしてあの黒いFitの走り方の、少しだけ深いところ。
シビックが戻る前に、もう少しだけ走れる。
もう少しだけ、削れる。
インテグラのエンジンをかけた。
深夜の首都高に、蒼いボディがもう一度滑り込んでいった。




