第二十五章 診断
モリタから連絡が来たのは、シノザキと走った翌々日だった。
「クロスは当面、中村には手を出さない」
「シノザキさんから?」
「そう」それだけだった。
電話が切れた。
涼はしばらく、スマートフォンを持ったまま立っていた。
クロスが手を引いた理由を、深く考えなかった。考えるより、走る時間の方が大事だった。ただ一つだけ引っかかったことがあった。シノザキはWZEBRAを知っていた。知っていて、口を閉じた。その理由が、まだわからなかった。
オオタがミウラのショップに行ったのは、その週の終わりだった。
涼が連れて行ったわけではなかった。オオタが自分で決めた。前の夜に短いメッセージが来た。
「ミウラさんのとこ、行ってみる」
それだけだった。
涼は返信を打とうとして、やめた。何も言わない方がいいと思った。
ショップから涼に電話が来たのは、夕方だった。
ミウラからだった。珍しかった。ミウラから電話が来ることは、ほとんどなかった。
「オオタが来た」
「知ってます」
「シビックを見た」
「どうでした」
少し間があった。電話口でミウラが間を置く時は、言葉を選んでいる時だった。
「悪くはない」ミウラはゆっくり言った。「セッティングは、思ったよりまとまってた。あいつは腕がある。自分でECUを書いて、ここまで仕上げられる奴はそうはいない」
「ただ」
「ただ」ミウラは続けた。「エンジンが限界に近い。腰下が、悲鳴を上げる手前にいる。あと何度か全開にしたら、どこかが折れる。今すぐじゃない。でも、遠くもない」
涼は何も言えなかった。
「本人には言ったか」
「言った」ミウラの声が、少し低くなった。「止める気はないと言われた。直してまた走ると言われた」
「直してもらえるんですか」
「断れない」静かに言った。「ただ、直す前にもう少し話をする。時間をかけて話をする。それしかできない」
電話が切れた。
涼はしばらく、天井を見ていた。
エンジンが限界に近い。腰下が悲鳴を上げる手前にいる。
その言葉が、別の何かと重なった。
大黒PAで松田に会ったのは、偶然だった。
SVXが停まっていた。松田がタイヤの空気圧を確認していた。涼が声をかけると、顔を上げて笑った。
「最近、だいぶ走れるようになってきた」
「SVXが?」
「オレが」松田は少し照れたように言った。「重い車だけど、重さに慣れてきた。重さの使い方がわかってきた気がして」
「白石さんのことを、もっと調べましたか」
松田の顔が、少し変わった。
「調べた。……すごい人だったんですね」
「どこまで」
「WZEBRAのこと。白石さんがあそこの常連だったこと。蒼い残光と同じ時代に走ってたこと」松田はSVXのボディを見た。「この車、走ると首都高の人に声をかけられるんですよ。SVXだって気づいた人に。みんな白石さんのこと知ってて、驚いたような顔をする」
「どんなことを言いますか」
「速かった、って」松田は少し間を置いた。「それと、最後まで走り続けた、って。病気がわかってから引退するまで、誰にも言わなかったって。黙って走り続けて、走れなくなった日に、初めて言ったって」
涼はその言葉を、頭の中で繰り返した。
病気がわかってから引退するまで、誰にも言わなかった。
「一つだけ聞いていいですか」松田が言った。「涼さんはWZEBRAを知ってますか。ショップとしてじゃなくて、もっと具体的に」
「知らないです。名前と、スバルのエンジンを得意にしていたことだけ」
「そうか」松田は遠くを見た。「残光がWZEBRAのデモカーだったって話、聞きましたか」
「聞きました」
「今でも走ってる」
「らしい」
「なぜ走ってるのか」松田は静かに言った。「ショップはもうない。白石さんもいない。それでも走ってる。誰が走らせてるのか、誰も知らない」
答えられなかった。
答えを持っていないし、持っている人間がこの首都高にいるかどうかも、わからなかった。
「でも」松田はSVXのステッカーを見た。「走ってるってことは、まだここにいるってことで。……それでいい気がして。理由はわからないけど、そういう気がするんです」
風が通り過ぎた。
褪せたWZEBRAのステッカーが、夜の照明の下で光っていた。
その夜、涼はオオタと走った。
シビックのエンジン音は、以前と同じだった。限界に近い、とミウラは言っていた。しかし音だけ聞いていたら、わからなかった。
走り方は、変わっていなかった。
速かった。正確だった。コーナーへの入り方に迷いがなかった。
しかし涼は、後ろからそのテールランプを見ながら、エンジンが悲鳴を上げる手前にいる、というミウラの言葉を頭から消せなかった。
速さの中に、時限がある。
そういう走りを、今の涼は追いかけていた。
大黒PAに戻ると、オオタが煙草に火をつけていた。
「ミウラさんとどんな話をした」
「シビックの話」
「それだけか」
「それだけだヨ」オオタは煙草を吸った。「……エンジンを直してもらう。時間がかかるって言ってた」
「その間は」
「走る。別の車を借りるか、足で走るか」
「足で走るのか」
「冗談だヨ」少しだけ笑った。
その笑い方が、久しぶりに夜の顔ではなく、昼間の顔に近かった。
「黒いFit、また見たいな」オオタは遠くを見た。「次に見た時は、もう少し詰めたい」
「詰めよう」
「お前はどのくらいで届くと思う、あれに」
涼は少し考えた。正直に考えた。
「わからない。ただ、近づいてはいると思う」
「そうだな」オオタは煙草を踏み消した。「近づいてはいる。確かに」
二人の間で、首都高の夜が続いていた。
エンジンが悲鳴を上げる手前にいる車が、大黒PAの照明の下に停まっていた。その隣に、蒼いインテグラが停まっていた。
どちらも、まだ走れた。
まだ、走れた。




