第二十二章 詰める
ミウラのショップに持ち込んだのは、翌週だった。
「黒いFitを見た」
工具を拭いていたミウラの手が、一瞬止まった。
「追えたか」
「追えなかった。でも見えた」
「見えた」ミウラは繰り返した。「以前は見えなかったのか」
「いなかったわけじゃない。ただ、気づいた時にはもう消えてた」
ミウラは少し間を置いた。
「それは、近づいてる」
「速度差は変わってないように見えた」
「見た目の速度差と、実際の差は別だ」ミウラはインテグラのエンジンルームを覗き込んだ。「追えなかった、ということと、見えた、ということは全然違う話だ。見えたということは、同じ視野に入った。同じ視野に入るだけの速度域に、お前が来たってことだ」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
「次に見た時に、差を縮めるには何が要りますか」
ミウラは黙ってインテグラを一周した。タイヤを見た。足回りを覗いた。エンジン音を聞いた。
やがて戻ってきて言った。
「エンジンは今のままでいい」
「足ですか」
「違う」
「じゃあ」
「お前だ」ミウラはあっさり言った。「今のインテグラで、まだ引き出せてないところがある。パーツの話じゃない。乗り手の話だ」
涼は少し黙った。
「どこですか」
「ブレーキを放すタイミングだ」ミウラは続けた。「お前はブレーキングが上手くなった。奥まで踏める。でも放す時に、まだ少しだけ早い。コーナーの頂点より手前で、無意識に安心しようとしてる」
「気づいてなかった」
「気づいてないから言ってるんだヨ。走り込んで、自分で気づけ。教えてもらった答えは、自分の身体には入らない」
その夜から、涼はブレーキリリースだけを意識して走った。
コーナーの頂点。そこまで我慢する。放すのは、そこを過ぎてから。
最初の三本は、乱れた。タイミングがわからなくなった。意識すると、かえってズレた。
四本目から、少しずつ馴染んできた。
五本目で、感覚が変わった。
フロントの荷重が、コーナーの奥まで乗ったまま残る。タイヤが路面を掴んでいる時間が、長くなる。アクセルを踏み始める場所が、コーナーの深いところになる。
速くなった、というより、正確になった。
ミウラの言っていた意味が、腕を通じて届いた。
大黒PAで、カジワラが待っていた。
珍しかった。カジワラからここで待つとは聞いていなかった。
「話がある」
「何ですか」
カジワラは周囲を見た。他に人がいないことを確認してから言った。
「クロスが動く。お前に対して、直接」
「シノザキが、ですか」
「シノザキ本人かどうかはわからない。ただモリタが動いてる。複数台で挟む気だヨ」
「前もやられかけた」
「前は涼が逃げ切れた。次は逃がさない気でいる」カジワラは腕を組んだ。「WZRがまた動くかもしれないが、それも確実じゃない」
「なぜ教えてくれるんですか」
カジワラはしばらく黙った。
「白石のことを知ってるから」静かに言った。「あの時代に走っていた人間は、クロスのやり方が嫌いだ。理由はそれだけだヨ」
白石研二の名前が出た。涼は少し考えてから聞いた。
「白石さんと、走ったことがありますか」
「ある」カジワラは遠くを見た。「何度か。速い男だったヨ。SVXであれだけ走れるのは、あいつだけだと思ってた」
「蒼い残光とは」
「一緒の時代だ」カジワラは短く言った。「詳しくは聞くな。知ってることと、言えることは別だ」
それだけ言って、カジワラはスープラに戻った。
帰り道で、オオタに電話した。
「クロスが動くかもしれない」
「いつ」
「わからない。ただ複数台で来る気らしい」
しばらく沈黙があった。
「わかった」オオタは言った。「来たら、一緒に走る」
「無理するな」
「無理してない」
涼はその言葉を、すぐには信じられなかった。信じたかった。しかし昼間の顔が、目の奥に残っていた。やつれた顔。目の下の影。窓の外の高架を見ていた目。
「オオタ」
「何だ」
「ちゃんと寝てるか」
少し間があった。
「寝てるヨ」
「何時間」
「……充分だ」
答えになっていなかった。涼はそれ以上聞かなかった。聞いても届かない場所に、今のオオタはいた。
電話を切った。
首都高の高架が、夜空の下に伸びていた。
黒いFitを見た夜から、何かが動き出している気がした。クロスが動く。WZRが動く。蒼い残光がC1に現れた。SVXが走っている。白石研二という名前が、あちこちから出てくる。
それぞれが別の話のように見えて、どこかで繋がっている気がした。
しかし今の涼には、全体を見渡す場所がまだなかった。
ただ走り続けるしかなかった。走りながら、少しずつ見えてくるものを待つしかなかった。
インテグラのエンジンをかけた。
深夜の首都高に、蒼いボディが滑り込んでいった。




